第24話 名前……ルゥ
逃げていったコボルトたちの気配が、闇の向こうへ完全に消える。
畑の真ん中で──月明かりを浴びながら、一人の少女が立っている。
ついさっきまでグレーウルフだった少女。
どうやら当の本人が、いちばん状況を飲み込めていないようだった。
「……なに、これ?」
呆然とした声が、ぽつりとこぼれる。
少女は自分の手を持ち上げ、じっと見つめた。
さっきまで前脚だったもの。爪は短くなり、細い指が五本に分かれている。
ぎゅっ、ぱっ。
もう一度、ぎゅっ、ぱっ。
確かめるように何度か握ったり開いたりしてから、今度はその場で軽く、トン、トンと跳ねる。
「変な感じ」
「ですよね」
スイが笑って答える。
「あの素早さで立ち回っといて、今更かよ」
レインは苦笑しながら呟いた。
少女はさらに、自分の腕をぺたぺたと触り、脚を見下ろし、尻尾をひと振りする。
頭の上の灰色の耳も、落ち着かなさそうにぴくぴく動いていた。
「手、増えた」
「増えたって言い方が正しいのかは分からないわね」
「でも、前までなかった」
「あー、前脚だったもんね」
真顔で言い返されて、リーファが何とも言えない顔になる。
元々人の形に近いリーファや、そもそも何だかよく分からないスイと比べて、急な二足歩行は違和感があるのかもしれない。
「慣れませんか?」
「全然平気」
どこか得意げに言う元グレーウルフに、スイが目をきらきらさせた。
「凄いですね。私は元々無足歩行だったので、慣れるのが大変でした」
「何だよ、無足歩行って。いや、意味は分かるけど」
レインは小さく笑いながら、改めて目の前の少女を見た。
銀灰色の髪は夜風にやわらかく揺れ、頭の上には獣の名残そのままの灰色の耳がぴんと立っている。腰の後ろには、ふさりとした尻尾。
琥珀色の瞳は鋭いのに、どこか幼さが残っていた。口元からのぞく小さな八重歯が、獣らしい名残をいっそう強くしている。
年の頃は、スイやリーファよりさらに少し下に見えた。
体つきもまだ華奢で、肩には毛皮を雑に羽織ったような短いポンチョ。それと毛皮で出来た短いスカートのようなズボンといった、野性味の強い格好だ。
けれど、その立ち姿には先ほどまでの狼と同じ、しなやかな緊張感が残っていた。
少女はなおも自分の手をぐっぱぐっぱと開いたり閉じたりしている。
どうやら、かなり気に入ったらしい。
その様子に少しだけ頬をゆるめてから、レインは腹の痛みをこらえつつ、ゆっくり立ち上がった。
「……助けてくれて、ありがとな」
少女はぴたりと動きを止め、まっすぐレインを見た。
「ボスのため」
短く、それだけ答える。
リーファが目をぱちぱちさせた。
「ボス?」
「この群れのボス」
少女は迷いなく、レインを指さした。
スイがこくこくと頷く。
「レインさんです」
「……レインは、この群れのボス」
たどたどしい口調で、少女は言い直した。
その横で、リーファが呆れたように肩をすくめる。
「別に群れでもなければ、ボスでもないわよ」
「……じゃ、レインは何?」
問い返されて考え込むリーファとスイ。
「水やり係」
「家主さん」
「お前らな……」
そんな三人のやり取りを、少女は不思議そうに眺めていた。
「まぁ、何でもいいさ。慕ってくれてるなら、理由は気にしない」
「分かった。じゃあレインはボス」
言い切る少女に、リーファはハイハイと首を振った。
「分かったわよ。おチビさんの言うとおりでいいわ」
「チビじゃない」
少女──元グレーウルフは、少しだけ眉を寄せた。
頑張って背伸びをしてみせるが、リーファの身長にはどうしても届かない。
それを見てレインは苦笑する。
「まあまあ、喧嘩は無しだ。二人より年も若そうだし、もしかしたら今から伸びるかもしれないぞ」
実際、彼女達の年齢なんて、分かったもんじゃない。
下手をすれば、ドライアドとして長年木と共に生きてきたリーファなど、見た目に反してよりレインより年上でもおかしくない。
あくまでも人間の姿での見た目上の話だ。
その点では、確かにこの子はスイやリーファよりも少し幼く見える。背も一回りほど小さい。
ほんと、この力は分からない事だらけだ。
「……ねえ、レインさん」
そのとき、スイがわくわくした顔で袖を引いた。
「アレ、お願いします」
「アレ?」
「はい、名前です!」
ああ、とレインは小さく声を漏らす。
スイとリーファのときと同じだ。
確かに、このままでは呼びづらい。
レインは少しだけ考える。
夜。月明かり。銀の毛並み。
群れを守るために戦い、月の下で人の姿になった狼。
「……ルゥ」
少女の耳がぴくりと動いた。
「神話に出てくる、月の女神の名前だ」
自分でも、わりと似合う名だと思った。
少なくとも、今のこの姿にはしっくりくる。
少女──ルゥは、その名を小さく反芻した。
「名前……ルゥ」
そして、こくりと小さく頷く。
「分かった。いい響き」
ほんの少しだけ、口元がほころぶ。
まるで、野良犬が初めて自分の家を見つけたような、そんな安心したような笑み。
レインの胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……よし。それじゃ、帰るか」
そう言うと、スイが嬉しそうに手を挙げた。
「はい!」
「畑の片づけは明日ね……もう疲れたわ」
「だな」
レインは頷いて、ルゥを見る。
「お前も来るよな?」
ルゥは一瞬だけ首を傾げたあと、当然のように答えた。
「行く。ルゥたちの家」
こうして四人は、月明かりの下、家へと戻っていく。
荒れ放題の村の中に建つ、小さな家。
まだ壊れた場所も多い、仮の寝床みたいな場所。
けれどその夜、そこはまた少しだけ変わった。
帰ってくる人が、ひとり増えたのだ。
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