第19話 野菜、成ったらまた食いに来いよ
荒れた畑の真ん中で、三人と一匹が睨み合う。
静けさが戻ったはずの夜は、むしろさっきより張りつめていた。
相手はたった一匹。しかも手負いだ。
それでも、コボルトたちとはまるで迫力が違う。
グレーウルフ。
狼系の魔物では、もっとも一般的な種族のひとつだ。
体格も、飛び抜けて大きいわけではない。むしろこの個体は、まだ若いのかもしれない。背の高さも、成体としてはやや低い。
だが、それで油断できる相手ではなかった。
月明かりを受けて覗く牙は鋭く、地面を掴む爪も細く長い。傷を負ってなお、その全身には獣としての迫力と力強さが満ちている。
さらに、グレーウルフの強さは肉体の強靭さだけではない。知能も高い。
命令を覚え、連携もできる。
好んで使うテイマーが多いのも、その扱いやすさと戦力の高さゆえだ。
そして実際──その首には首輪があった。
「……っ」
レインの胸が、ずきりと痛む。
革と金属で作られた、見慣れた形。
テイマーが使役した魔物を制御下に置くために使う、魔道具だ。
けれど表面に浮かぶはずの制御紋は消え、もう機能していないのが一目で分かった。
つまりこいつは……捨てられたのだ。
役に立たなくなったから。
傷ついたから。
使えないと判断されたから。
その答えに、心が先に辿り着いてしまう。
しばらくのあいだ、誰も動かなかった。
グレーウルフは低く唸りながら三人を見据える。
リーファはいつでも蔦を伸ばせるよう身構え、スイはレインの半歩後ろでごくりと息を呑む。
やがて──
グレーウルフが、すん、と一度だけ鼻を鳴らした。
襲いかかるでも、畑を荒らすでもなく、三人に背を向け、そのままよろめくような足取りで歩き出した。
「……ま、待ってくれ」
気づけば、レインは一歩踏み出していた。
グレーウルフが即座に反応する。
振り向きざまに牙を剥き、喉の奥で低い唸り声を転がした。
「レインさん!」
「危ない!」
スイとリーファが同時に声を上げる。
だがレインは、二人を制するように片手を上げた。
「大丈夫だ」
そう告げてから、視線をグレーウルフへ戻す。
近づきすぎず、遠すぎず。
飛びかかられれば避けきれないが、一撃で喉元を食い破られはしないだろう──そんな絶妙な距離を保ったまま、レインは静かに口を開いた。
「お前……畑を守ってくれたんだな」
グレーウルフの耳が、ぴくりと動く。
レインは荒れた畑へ目をやった。
コボルトたちのあの様子では、昨日の時点で畑が壊滅していてもおかしくなかった。
食べるだけじゃない。面白半分に踏み荒らし、引き抜き、壊す。あんな連中が好き勝手に暴れ回れば、もっとひどいことになっていたはずだ。
けれど実際には、被害は出ていたものの、立て直しが利く程度で済んでいた。
そして今夜も、コボルトたちは最初からどこか警戒していた。
たぶん──こいつだ。
「……野菜を食った、詫びか。それとも、礼のつもりか?」
もちろん、言葉がそのまま通じるとは思っていない。
それでも、レインは声をかけずにいられなかった。
ゆっくりとしゃがみ込み、足元に転がっていた、小さく傷んだ実を拾う。
かろうじて無事だったひとつだ。
それを、グレーウルフの鼻先へそっと差し出した。
グレーウルフはすぐには食いつかなかった。
琥珀の瞳でレインを見つめたまま、何度か鼻を鳴らし、慎重に匂いを嗅ぐ。
警戒は解いていない。
だが、空腹には抗えなかったのか、やがて小さく口を開き、差し出された実を食べた。
噛む力は弱い。
随分と、消耗しているのが分かる。
「……リーファ、薬草を」
「え、いいの?」
リーファが目を丸くする。
街から持ってきた、わずかな薬草だ。
今の村では簡単に手に入るものじゃない。
「ああ」
レインが頷くと、横からスイがすっと手を伸ばした。
「私に任せてください」
そう言って薬草を受け取ったかと思うと──
ぱくり、と一口で飲み込んだ。
「お、おい!?」
レインが思わず声を上げる。
だがスイは真顔だった。
もぐもぐと口を動かし、次の瞬間、両手をすくうように前へ差し出す。
その手のひらの上に、淡い緑色をしたゲル状のものが、ぷるんと現れた。
「これ……傷薬か!?」
「はい。薬草の成分を濃縮して、塗りやすくしてあります。そのまま使うより、こっちの方が効くかと思って」
スイは少し得意げに胸を張る。
「お前、いつの間にそんな知識を……」
「えへへ……何かこの姿になってから、賢くなったみたいで」
「そ、それは……凄いな」
言いながらも、レインは差し出された薬を受け取った。
ひんやりとしていて、ほのかに青い匂いがする。
レインはもう一度グレーウルフの方を見る。
警戒はしている。けれど、逃げる力すら惜しいのか、深く身構えるまではしない。
「……少し、触るぞ」
ゆっくりと声をかけ、傷のある前脚へ手を伸ばした。
その瞬間、グレーウルフの喉が低く鳴る。
肩がぴくりと揺れ、いつでも噛みつけるように口元が引き締まった。
レインも、そこでぴたりと手を止める。
この至近距離で暴れられたら終わりだ。
無理に押さえつける事なんて到底不可能。だとすると、信じて貰うしかない。
しばらく、そのまま。
夜風が吹き、草が鳴る。
やがてグレーウルフは、ほんのわずかに視線を逸らした。
逃げもせず、牙も引っ込めはしない。だが、それ以上拒まなかった。
レインは息を殺しながら、慎重に傷口へ薬を塗る。
「……グッ」
小さな呻き声が漏れた。
その声に、脳裏の奥がひどく痛んだ。
あの日のことを思い出す。
テイマーとしての、最後の日。
傷ついたグレーウルフ。
散々世話になったのに、助けられなかった命。
自分の手は届かなかった。
綺麗事でどうにかなるほど、あの世界は優しくなかった。
贖罪のつもりはない。
そんなものは、結局ただの自己満足だと分かっている。
それでも。
目の前で傷ついて、捨てられて、まだ生きようとしている命を見たら──見過ごすなんて、できなかった。
このために、テイマーを辞めたのだから。
薬を塗り終えると、グレーウルフはしばらくじっとしていた。
やがて、ゆっくりと体勢を変える。
前脚に少しずつ力をかけ、立ち上がった。
「……立てるのか」
足取りはまだ万全じゃない。
それでも、さっきよりは明らかにしっかりしていた。
薬が効いたのか、あるいは少し休めたからか。
ともかく、もう先ほどのような危うさはない。
グレーウルフはレインを見た。
月明かりの中、琥珀の瞳が静かに細められる。
まるで一瞬だけ、礼を言うみたいに。
「行くのか?」
レインは立ち上がり、少しだけ笑った。
「野菜、成ったらまた食いに来いよ。分けてやる」
通じたかどうかは分からない。
けれど、グレーウルフは一度だけ、レインに向かって小さく吠えた。
敵意のない、短い声だった。
そして次の瞬間には、銀灰色の体は闇の中へ溶けるように走り去っていた。
残されたのは、夜風と、踏み荒らされた畑と──
少しだけ、胸の奥に残る暖かさだった。




