第890話 こちきたる
メストリルを発ち、数時間もしないうちに隣国ケライヒシュールへ到着したミリアは、とりあえずのところ、メストリル公邸へと向かった。
「公邸」と言っても、ほとんど使われていない屋敷で、一応のところ、メストリルの要人がこの国を訪れた際の宿泊施設としてメストリル王国政府が構えたものである。
もちろん無人というわけではなく、使用人と管理人で普段はこの屋敷の管理を行っている。
(私も何気に、この屋敷に入るのは初めてのことだわ――)
ミリアは、部屋の準備ができるまでと通された応接室をぐるりと見渡してそう思い至る。
通されて数分後、使用人の女性がティーセットと焼き菓子を運んできてくれた。
(あ、クラーサ……)
ミリアはその紅茶の香りに鼻腔をくすぐられる。
柑橘系の甘酸っぱい香りがこの紅茶の特徴だ。
「ミリアさま。確か、クラーサ茶を好んでお飲みになると聞いておりましたが、よろしかったでしょうか?」
その女性――歳はミリアと同じぐらいか少し上か――がミリアにそう聞いてくる。
「え? あ、はい。ありがとうございます――。よくご存じですね?」
ミリアのお茶の好みなど、あまり人に話したことは無かったはずだが、どこで聞いたのだろう。
「いえ。ヴュルスト卿からのご指示でございますよ。もう少ししたらお部屋の準備が整います。もうしばらくお待ちくださいませ――」
そういうと彼女は、一礼して部屋を辞して行った。
(ヴュルスト卿――? あ、『院長』のことか――)
そう言えば、『院長』の名前など、久しく口にしていなかったなと、思い至る。
それにしても『院長』がわざわざ「クラーサ」を出してやってくれと伝えていたとは。さすがに驚いた。
その直後、こんこんと、応接室の扉が鳴った。
「はい、どうぞ――」
と、現在の部屋の主であるミリアが応じると、別の男性使用人が部屋に入って来て、こう告げる。
「ミリア様。到着してすぐのところ申し訳ないのですが、お客様がミリア様を訊ねておいでです。いかがいたしましょう?」
「私を? 一体どなたが――」
「それが――、『こち』だと言えば分かると……。女性で、年齢は30代前半――いや、半ば? とにかく、髪の長い美しいお方で――」
「こち……。あ! もしかして、馬で来られましたか? 馬の毛色は、珍しい、青みがかった黒鹿毛?」
「え? ええ、そうです! 青い艶が美しい馬だなと思っておりました――」
(アクエリアだわ! 「こち」は『東風』のこと――。東の国の『風』、つまり、シェーランネル王国の『疾風』リシャール・キースワイズさま――)
ミリアはそう結論付け、返事を返す。
「お通ししてください。お会いします――」
使用人の男性は、ほっとした表情を浮かべ、一礼すると扉の向こうへ消えていった。
(それにしても、本当にリシャールさまだとして、私がここに来てるってよく分かったわね。さすがは、ウォルデランと肩を並べると言われるだけの諜報力だわ――)
それにしても、私に一体何の御用だろう?
たまたま近くに居たから会いに来た――というのなら、本名を名乗ってくればいいはずだ。
意図して名を隠して接触してきたということは、何か身元を隠す理由があると考えた方が辻褄が合う――。
(――この国の政変といい、なんだかきな臭くなってきたわね――)
と、ミリアは少し胸につかえるものを感じていた。
******
数分後――。
ミリアのいる応接室に通されてきたのは、やはり間違いなく、『疾風の魔術師』リシャール・キースワイズ様だった。
だけど、リシャールさまはミリアの顔を見るなりすぐに「魔法通信」を送ってくる。
『ミリア、私の名は伏せてちょうだい――』
ミリアは即座に頷いた。
「すいません。こちらの方にもお茶を――。心配いりません。私の古い友人です。部屋が準備出来たら、二人でそちらに移ります」
と、リシャールさまを案内してきた男性使用人に告げ、片手をやんわりと上げて、合図を送る。
「はい。すぐに――。それではお客様、どうぞごゆっくり――」
男性はそう一礼して下がっていった。
その男性が扉を閉めるのを確認したリシャールさまが、
「ミリア、ごめんなさい。急に押しかけて――」
と、そう切り出した。
「――実は、頼みたいことがあるのよ」
「わかりました。でも、お話はまたあとで。急いでいらしたんでしょう? お茶を頂いてゆっくりしてからにしませんか?」
「――そうね。そうしましょう」
そう言って、少し表情を和らげたリシャールさまは、ミリアの提案に応じてソファに深く腰掛けた。
ミリアも、リシャールの表情に応じるように口角を上げるが、自分でもやや緊張が隠せていないことを感じている。
頼み事とはいったい何なのだろうか――。
紅茶を口に運んでいる間ずっと、そのことばかりが頭の中を駆け巡っていた。




