第886話 キールの想い
「ああ~、いい湯だなぁ~。今回のエラン視察の収穫の一つだね、この宿は」
キールは石造りの湯船に体を浸しながら、両手両足をぐっと伸ばした。
エランの港町の一角に、とてもいい温泉旅館があるらしいとアステリッドがここに来る前に言っていたのだが、たしかに申し分のない旅館だった。
建物の造りも、なんとなく「日本の温泉旅館」のような雰囲気を醸し出しているところも懐かしい。
それになんと言ってもこの旅館の推しポイントが、この温泉だけではなく、もう一つあるというのもいいところだ。
料理である。
海のすぐそばという立地から予想できるように、料理にはふんだんに魚貝類が使用されており、どれも新鮮で洗練された味わいがあった。
ただ、こんな辺境の港町を訪れるものもそれほど多くなく、旅館の経営自体は、エランの造船所ができるまでは、それは閑散としたものだったらしい。
『ほんとうに、大助かりなんですよ~。造船所が出来てからは、物流の業者も多くこの街を訪れるようになりまして、おかげさまで、旅館業を続けられております――』
と、この宿の女将が嬉しそうに頬を緩ませていた。
(これからも新しい港町ができたり、古い港町が活性化したりすればいいんだけどな――)
実は、この世界では、地球ほど寄港地の重要性は高くないとも言える。
その理由は、ある条件を満たせば、「飲料水」の補給が必要ないからだ。
船員の中に、「水」を生成できる魔法使いが一人いれば、「飲料水」の問題は解決してしまう。
(『水成』の魔法で生み出した水が飲めるということは盲点だったなぁ――)
水の塊を生み出す魔法『水成』――。
この魔術式は、いわゆる基本錬成魔法の一つで、通常クラスに位置する。錬成は「1」で可能だ。
キールは一つ考えていることがある。
この北の大陸において、錬成「1」魔術師は、国家魔術院に帰属することができない。
つまり、世界中には錬成「1」を理由に、国家魔術院の庇護を受けることが出来ず、肩身の狭い思いをしている魔術師が相当数存在している。
(彼らに、仕事を与えることができる――)
長距離運搬や大陸間運搬が常在化すれば、必ず「飲料水補給」の問題が持ち上がるだろう。
各船に一人でも、『水成』を錬成できる魔術師がいれば、無限にというわけにはいかずとも、急場をしのげる程度には「飲料水」を補給することができるようになる。
間違いなく、錬成「1」魔術師の需要が増えるだろう。
そもそも、錬成「1」魔術師が国家魔術院に帰属できないのは、戦闘員として活用するには限界があるという理由からだ。
そして、国家魔術院の庇護を受けられない魔術師は、それでもその力を利用しようとする悪人の標的にされやすく、結果的に、自分が魔術師であることを隠しながら生活しなければならず、せっかくの魔法の才を自分の人生の「枷」として背負って生きなければならなくなっている。
そういうものたちの多くを救うことができるだろうし、彼らの有用性が立証されれば、内陸においても地位向上を望めるだろう。
キールは、湯から右腕をもたげると、「『水成』――」と短い詠唱句を唱える。
キールの手のひらの上、数センチの位置に、ぽよぽよと揺れる水の塊が生成された。
これが錬成「1」魔法、『水成』だ。
実は、この『水成』だけでも、修練を積めば武器として使うことができないわけではない。
例えばこの手のひらの上の塊を、相手の口に押し込んでやるだけで、相手は呼吸困難に陥るだろう。
(でも、そんなに簡単に口の中へ入れさせてくれる敵はいない――)
その為、通常は、これに『氷結』を足して氷漬けにしたり、『物体移動』で水の塊を操って敵を押し流したりするわけだが、その為にはもう一つ「錬成」が必要になる。
つまり、錬成「2」以上でないとそういうことができないわけだ。
これが、国家魔術院が錬成「2」以上の魔術師しか帰属させない理由である。
(でも、単純に、火を起こしたり、風を起こしたりできるだけでも、本当はすごい能力なんだよな。それを隠して生きなければならないから、結局、魔法の練度が上げられず、魔法使いだということも忘れてしまうんだろう――)
クリストファーのように、魔法を全く発現させることができない『錬成「1」魔術師』もいるのだが、そういう人たちはそもそも誤って発現させることも無いからまだましだ。
でも、『出来ることをしてはいけない』というのは非常に苦しいことだろうとキールは思う。
キールは手のひらの上の水の塊に口を近づけてちゅるちゅると吸ってみる。
(うん、やっぱり真水だ――。まあ、別に美味しくもないけど、まずいわけじゃない。まさしく「真水」で、無味無臭といったところだけど)
船の上ではこれで充分なのだ。
「小僧―ー。何をさっきからやっておる」
と、リーンアイムがキールの少し離れた場所から声を掛けてきた。
そういえば、こいつもこの露天風呂に居たんだったと、キールは少し気恥ずかしくなる。
「な、なんでもないよ! いちいち構うなよ!」
キールはそう言うと、湯船から立ち上がった。




