第880話 ルクレツィア、突進
「キールさまがおいでなのですか!? 今、どちらに!?」
ルクレツィアの胸が躍った。
エルレアからエランに寄港してすぐ、大使館の情報網を利用して、帰還の報告をしておいた。
それからまだ3日も経っていない。
つまり、キールさまは報告を受けてすぐにこちらへ飛んできたということだろう。
(私に会いにいらしてくれた!)
ルクレツィアにはただそれが嬉しかった。
(目的は、私自身では無くて、私の持って帰って来ている情報だとしても――『私』であることに変わりはないんだから)
ルクレツィアはそう自分に言い聞かせて走る。
エラン帰還の少し前の海上にて、すでに艦隊は解散し、それぞれの持ち場に戻してある。
それに伴い、ルクレツィアの『提督』の任も外された。
『翡翠の魔術師』と呼ばれている、この北の大陸でエルルート族を統括している大使館長であるジルメーヌ・アラ・モディアスさまにはすでに報告書を作成して詳細を送ってある。
現在のルクレツィアには、次の任務の指令があるまで、このエランに待機せよという命が下っていた。
(私の情報だけが目的なら、ジルメーヌさまに聞けば事足りるのに、わざわざ会いに来てくれるなんて、それだけでも幸せだ)
もしかしたら、これは『翡翠』さまの取り計らいか――。
だとしても、もうどうでもいい。
あと数十秒で、あの方に出会えるのだから。
「デリウス教授! キールさまは!?」
報告をくれた造船所の事務員の言うとおり、デリウス教授の執務室へと駆けこむルクレツィア。
そして、その応接セットにキール・ヴァイスの姿を見止めた。
「キールさまぁ!」
ルクレツィアはもう自分の心と体の反応を隠すことをしなかった。
そのまま、キールの首に腕を回し、ぎゅうと抱きつく――。
「うわぁ! ルクレツィアさん!? どう、しました!?」
「どうしたもこうしたも、会いたかっただけです! ああ、キールさま、本物のキールさまだ――」
「ちょ、ちょっと落ち着いて――。今日は、南の海の話を――」
ルクレツィアも、感情の高ぶりが走り過ぎたきらいがあるのは認めている。こういうことができるのは、再会して数秒の間だけの特権だ。
これ以上くっついていると、それこそ自分の尊厳にかかわる。
女として低く見られるのはさすがに許容できない。
「――わかっています。すいません、あまりに懐かしかったものですから。もう大丈夫です」
と、そう言いながら、腕を解いて態勢を戻す。
「キールぅ……、これはいったいどういうことなの――?」
女の声がそう響いたその時、ルクレツィアの背中に氷水が垂らされたような悪寒が走った。
「う……、あなたは――、ミリア……さん? いらしてたの、ですね――?」
「ち、ちがう! 僕は何も――」
「私は、キールさまに嫁ぐことに決めております。ミリアさんにご迷惑は掛けません。以後、よろしくお願い致します――」
キールさまが抗弁しようとするのに割って入り、自己主張をするルクレツィア。
こういうことは、はっきりと告げておいた方がいろいろと面倒なことにならない、というのがエルルート流の恋愛作法というものなのだ。
「ルクレツィアさん!? そんなこと、僕は――」
「キール!! ちゃんと説明しなさい!!」
「キールさまは何も悪くありません! ミリアさんこそ、何か特別な権利でもあるというのですか? お二人はもう、婚姻の議を交わされているのですか?」
ルクレツィアはここで退いたら後が無いと覚悟を決めている。
「こ、こ、婚姻~~~っ? そ、そんなの、まだに決まってるじゃない!」
「だったら、私が求婚しても、別に構わないですよね? キールさんは誰かのものではないわけですし?」
「いや、ちょ、ちょっと待って、ルクレツィアさん! 僕はあなたと婚姻するつもりはありませんよ?」
「今は――ですよね? 私はエルルート族ですから、たぶんキールさまが老いて行かれても、私はこのままほとんど変わりません。いつまでも若いままですよ? だから、先のことなんて、わからないじゃないですか? 私がキールさまをいつまで想い続けるかも、私の自由なんですよね? それが、北の大陸の流儀だと、聞いています――!」
そうだ。
北の大陸の流儀、それは、自由経済主義思想だと『翡翠』さまから聞かされている。
基本的に思想信条は、個人の自由であり、『三大罰』と呼称される行為、「殺す、奪う、騙す」というものもあるが、余程でない限りは、基本的には自己責任主義をとっている、というものだそうだ。
「それは、そうなんですけど――、いや、そうじゃなくって! って、もう、どうしたら――」
と、キールさまが、困惑している。
が、今は、自分の想いをしっかりと伝え、知ってもらうことの方が優先順位が高い。
「――まあ、まあ。少しみんな、落ち着いて。ほら、一応ここ、私の仕事場なんで、ね?」
と、口を挟んだのは、この部屋の主、デリウス教授だった。
「――ルクレツィアさん、久しぶりに想い人に会って気持ちが高ぶるのは分かりますが、すこし、大人げないかもしれませんな。キールくんもミリアさんもまだ、若い。あなたは二人よりもずっと年上なのでしょう? これからのことはゆっくりと――ね? キールくん、ミリアさん。ルクレツィアさんは相当大変な航海をされてこられた様子。少し大目に見てあげてほしいと、わたしから、お願いするよ」
ルクレツィアは、デリウス教授には、航海の中身については話していない。
だが、レフィーエ号のメンテナンスはお願いしてある。
(この人、船を見て、察したっていうの――? 本当に、船が好きなのですね……)
そう思うと、デリウス教授の言葉を落ち着いて受け止めることができた。
「――申し訳ありません、皆さん。少し、感情が高ぶってしまいました。キールさま、突然のご無礼、お許しください」
ルクレツィアは、ようやく心を落ち着けて、静かに頭を下げた。




