第877話 ひとときの休息
「はああ~あ……」
と、キールは大きな口を開けて大あくびをかましてしまう。
それを見ていたアステリッドが、速攻で嗜める。
「キールさん? いくらなんでも気が抜けすぎですよ? 本当に何もしなくていいんですか?」
「いいんだよ。少しぐらいゆっくりする時間も大事だろう? ここ数か月、ずっと動きっぱなしだったんだからさ――」
キールは今、メストリル王立大学構内のデリウス教授室のいつもの席に腰かけ、その椅子を揺らしているところだ。
こうやって何も考えずにぼけっとする時間というのが、どれほどに愛おしい時間だろうかと噛みしめている――。
「――ワイアットさんもクリスも皆今も働いてるのよ? それに、ルイやジルベルトさん、デリウス教授やエリザベス教授だって――」
と、アステリッドを援護するのはミリアだ。
リーンアイムは、教授席に体を預けて寝息を立てている。
「わかってるよ、ミリア。僕だって、何も考えていないわけじゃないさ。でもね、少し整理する時間は必要だろ?」
「整理、ねぇ。とてもそんな風には見えないけど?」
「そんなことはないよ。ルクレツィアさんもエルレアに向かってるし、ハーマンさんは各国に交渉に回ってる。エルヴィンは港の大改修工事だし、ルイとジルはリトアーレに向かってまた発ってしまった。それに、バレリア遺跡の踏破だってまだまだ進めなくちゃならない――」
と、キールは自分だって何も考えていないわけじゃないというポーズを取る。
「――でも、それ、みんなキールさんじゃなくて他の誰かがやっていることですよね?」と、アステリッド。
「うっ……、そうだけどさ、それらを総合してこれからどうしていくかをだねぇ――」
「結局、そういうのを待ってるのを言い訳にあくびをうやむやにしようとしてるんでしょうが! シャキッとしなさい! なんなら、院長のところへ行って追加で稽古をつけてもらって来れば?」
「それは、勘弁!! 朝稽古で、こってりやられてきたんだから……」
『氷結《院長》』との稽古はキールがメストリルに戻ってから連日、朝の一時間だけ限定でつけてもらっている。
というより、ほぼ強制的に受けさせられていると言った方がいいかもしれない。
教授室にこうやって座っていると、学生時代のことをふと思い出す。
あの頃は、とても穏やかでゆっくりと時間が流れていたのだと、改めて認識させられてしまう。
そう思うと、一つだけ空いている椅子が妙に寂しさを押し付けてくる。
「クリストファーも、忙しくしてるんだろうな――」
ふと口をついて言葉が溢れた。
『ラアナの神童』は、学生時代を飛び越して、あっという間に世界へと駆け上がってしまった。
思えば、クリストファーと一緒に過ごした学生時代って、それほど長い期間ではなかったのだと改めて思い至る。
初めて会ったのは、そう、カインズベルクの露店でのことだった。
まだキールが逃亡生活をしていた頃の話だ。
それから彼がヘラルドカッツ王国の手によって攫われるまでの間だけが、キールとクリストファーが一緒に過ごした『学生時代』だ。
期間にすれば、たった1年半ほどというところなのだが、それでも、その時間がとても濃密に色褪せず、記憶と心情に残り続けている。
「――ん? そう言えば、クリストファーの学籍ってどうなってるんだ?」
「ああ、それは、いまも休学扱いのはずだけど?」
キールの問いにミリアが応じる。
「エリザベス教授の話ですと――。ここは『王立』ですからね。『英雄王』の決定一つでどうとでもなりますから。本来、休学の限度って4年らしいんですけど、クリストファーさんは特別に無期限休学扱いらしいですよ?」
と、アステリッドが補足する。
「なんて、特別扱いだ……。僕なんか必死で卒業論文仕上げたってのに――」
キールは卒論を仕上げた時期のことを思い出して胃が痛くなる。
「ちゃんと、お付き合いしてあげたじゃないですか? 資料集めだったり、校正だったり。私も自分の試験の準備とかあったんですからね?」
と、アステリッドが頬を膨らませる。
「ごめんね、リディ。私その時期、メストリルにいなかったから――」
とはミリアだ。
そうだ。
その時期、ミリアはシェーランネル王国へ『留学』していたのだ。
キールは『逃亡生活』のため、一年休学している。その為、ミリアとは一学年ズレることになった。
その結果、自分の卒論の頃にはミリアの助力が期待できると踏んだのだが、見事に裏切られてしまった。
「そうだよ、ミリアが居なかったから、本当に大変だったんだよなぁ」
と、おもわず愚痴るキール。
が、これが良くなかった。
「はあ!? なんで私のせいになるのよ? アンタの卒論なんだから、アンタが一人でやるべきものでしょ? 私は一人でやったわよ?」
と、ミリアが声を荒らげる。
「そうですよ! 私の時はキールさん、海の上だったじゃないですかぁ!」
と、アステリッドも椅子を蹴り上げんばかりの勢いだ。
「あ、ああ、ごめん、つい――。反省してます――」
「わかればいいのよ」「ほんとうですよ」と、椅子に戻る二人。
「なんだぁ? もう飯か――?」
と、今の騒動に目を開けたリーンアイムが言った。




