第876話 愛しき人
ぽつんと一人、教授室に取り残されたミリア。
さすがに途方に暮れてしまう。
いったい彼はどこに居るのだろうか――。
日はまだ高く、日暮れまでにはまだ時間がある。家に帰るにはまだ早い時間だ、と思う。
(そう言えば私、キールが一人の時にどこに行くことが多いのか、あまり知らない――)
よくよく考えてみると、キールの行動について、ミリアは知らないことの方が多いと思い至る。
これまでは、どちらかと言えば、キールの方がミリアを探し当ててくれることの方が多く、ミリアは自分からキールを探して回った経験が少ないのだと気づいた。
思い当たる場所――。
(あとは――王立書庫か……)
大学構内でキールがいきそうな場所と言えば、一番先に思い当たるのは王立書庫のあの小部屋だろうか。
(一応、魔法感知も試してみたけど、反応を拾えないわ。キールったらどんどん魔素制御がうまくなっていくわね。さすがにもう、わたしでも拾えなくなってしまったわ)
キールの魔術師としての最初の師匠はミリアだったと、今ではもう言えない程に、キールの魔法技術はこの数年でとても上達してしまっている。
(最初なんて、教室中が匂う程に魔素をばら撒いていたっていうのにね……)
ミリアはすでに教授室を出て王立書庫へと向かっているところだ。
そういえば、その日初めてキールを呼び出して話をしたんだったっけ。
あの日、教室に入るなり、キール・ヴァイスから感じた魔法痕跡に触れ、それを咎めるべく、ミリアはキールを呼び出した。
そして、魔法を使うのはやめておけと釘を刺したのだった。
実はミリアは、その日の自分の行動を今でも、自分自身でも理解不能な行動だったと感じている。
ミリアは当時すでに、国家魔術院のメンバーだった。
普通であれば、国家魔術院の感知していない魔術師を発見した場合、上長に報告をするのが当然の行動のはずだった。
なのにミリアはネインリヒさんや院長に報告をせず、キールに魔法の訓練を付けるという、自分勝手な行動をとってしまったのだ。
(――そういえば、その件について、院長やネインリヒさんから懲罰を課されることは無かったな――。私ったら、やっぱり随分と甘やかされていたのね)
と、今さらながらに、二人の温情に思いを馳せる。
思えば、ミリアのその自分勝手な行動がその後、キールを苦境に追い込んでしまったと言えなくもない。
ミリアはその当時の自分の浅はかさと、あのキールの居なくなった日々のことを思い出すと、今でも胸が疼くのを感じる。
(あ――、東屋――)
そのキールを呼び出した場所、王立大学の中庭にある東屋。
その場所は、大学と王立書庫のちょうど中ほどに位置しているのだが、大学の主要区からは少し外れているため、あまり学生たちも近づいてこない場所にある。
通りがかりに、ミリアがふとその東屋に視線を向けると、珍しく人の影が見えた――。
(あ……)
ミリアは瞬間、駆け出し始めた。
もう、ほとんど全力に近い速度で走り出している。
途中から息が荒くなるのを感じるようになる。東屋まで意外と距離があったのに、考えもせず駆け出してしまったことに今さらながらに後悔するが、もう遅い。
この状況だと、キールのもとに到着する頃には、走ってきたのが一目でわかるほどに息が上がってしまうことだろう。
それでも――。
ミリアの足は止まらない。
その足を緩めれば、それだけ彼に会うまでの時間が長くなるのだと、そう思うと、一度駆けだした足はその回転をゆるめる理由を持てなかった。
キールはこちらに気付かない。
東屋のベンチに腰掛け、少し俯いている。その態勢はミリアがよく知っているキールのお決まりのポーズだ。
おそらくはまた、「なんとか隊長漂流記」みたいなよく分からないタイトルの冒険小説などを読んでいるのだろう。
東屋に近づく――。
キールがもう手の届く位置に居る――。
ミリアはその勢いのまま、キールの名を呼んだ。
「キール!」
呼ばれたその青年が、その声に反応して顔を上げ、そして、ぱあっと明るい笑顔を向けてくる。
「ミリア!」
そうして、手にしていた単行本をベンチに置くと、立ち上がって両手を広げる。
ミリアには、もう、キールしか目に入らなかった。
そのまま、キールの腕の中に飛び込むミリア。
もう誰が見ていても構わないと、覚悟を決めている。
懐かしい匂いと体温がミリアを包み込み、キールの吐息が髪にかかるのを感じる。
「びっくりしたよ、ミリア。戻って来てたんだね?」
数十日ぶりに聞く愛しい人の声――。
「う、うん――。少し前にね――」
と、ミリアはキールの胸に顔をうずめたままで返事を返す。
「そうなんだ――。元気そうでよかった。こっちも数日前に戻ってきたところなんだ――。一旦メストリルへ戻ってきたあと、もう一度、リトアーレまで行って来たんだよ?」
「そう、なのね――」
「うん――」
そうしてようやく息が落ち着いてきたのを確かめて、ミリアは顔を上げた。
「ねえ、キール……」
「え、ええっ!? ここで?」
「はやく――」
「わかったよ――」
そんな言葉のあと、二人の唇がほんの数瞬、重なった。




