第869話 『疾風』リシャールの憂鬱
クルシュ暦372年8月上旬――。
シェーランネル王国王都国家魔術院院長執務室。
『疾風の魔術師』こと、リシャール・キースワイズは、クラーサ茶を口に運びながら、書類の山に目を通していた。
「院長。これもお願いします――」
容赦なく積み重ねられる書類。それを積んでいく優秀《《すぎる》》秘書官はベアトリス・メイローだ。
「ええ~!? ようやくここまで減らしたのにぃ……。ベアトリス、少しは加減というものを――」
リシャールの言葉を無視するように、ベアトリスはさらに書類を積み上げてゆく。
「加減というのは、「加える」「減る」という字を当てますが、『減らす』のは院長のお仕事で、私の仕事ではありません。あしからず――」
まあ、いつものやり取りだ。
ミリアが顔を出してからそろそろひと月が過ぎようとしている。
どうやら、シェーランネルは、いろいろな方面から「置いてけぼり」をくらっているようだ。
かろうじて、電力設備と通信設備への投資は遅れずに済んでいるのだが、世界の革新の速度が思った以上に速い。
「ねえ、ベアトリス。今回報告にあった、三国共同の『鉄道』事業についてなんだけど、現状、その三国とその間のケライヒシュールの4か国以外にその情報は伝わっているのかしら?」
シェーランネル王国国家魔術院の諜報能力は、メストリル、ウォルデランと比肩するほどに高い。
当然のことながら、西のキュエリーゼ王国のウィリアム王子が主体者となって進めようとしている『鉄道』についてもすでに察知していた。
「どうでしょう。ウォルデランの『火炎』さまあたりはすでにご承知でしょう。あと、北西に位置するノースレンドの国家魔術院はすでに知っているはずです。しかしながら、国王や政府にその情報が伝わっているかはわかりません――」
ノースレンドの国家魔術院の院長は今、《《二人いる》》。一人は、メストリル王国国家魔術院から派遣されたミヒャエル・グリューネワルト、そしてもう一人は、ヘラルドカッツ国家魔術院のルスラン・レヴィンだ。
二人とも、関係国の国家魔術院の魔術師でもある。
二人は今もなお、失墜した前院長ヒューロ・ガイレンの「後始末」に追われている。
「そうよね――。となると、4か国の鉄道敷設が終わった後は、普通に考えて、ウォルデランとノースレンド――、いえ、レクスアースが先か――」
「おそらくはレクスアースが最優先になると思われます。レクスアースは製鉄においてかなり強力にサポートすることになるでしょうから」
「――いずれにしても、この国にまで回ってくるのは随分と先になりそうね。どうするの? ベアトリス」
「さあ――」
「もう! 意地悪な子ね。なにか策は無いかと聞いてるのよ?」
「策という程のものではありませんが、無いこともありません。ですが、それも我が国単独で行えるものではありません」
「ダーケート――よね?」
「はい。我が国からは、ダーケート王国を越えない限り『海』へ出ることはできませんから」
「やっぱり、ダーケートに話を通さないとダメかぁ~」
「一応、他には、鉄道事業参画のほうならヒストバーン王国との連携が必要でしょうし、燃料事業への参画ならフロストボーデン王国との連携が必要になります」
燃料事業というのは、フロストボーデンの石炭石油資源のことを言っていることはリシャールも承知している。
このシェーランネル王国というのは、地理的に非常に難しい立地に存在している。
たしかに、これまでの荷馬車運送主体の時代にあっては、シェーランネル王国は3つの国家に接続している中継拠点として栄えることができた。
ことに、ダーケート王国がもつ独創性豊かな文芸品、技術、食料品などの人気は高く、輸送量も多い。シェーランネルもその恩恵を大きく受けているところである。
が、反面、常に3国と隣接する関係で、戦乱期に国土の拡大を思うように行えなかったという過去があり、独自資源が乏しく、産業振興が思うようにいかないという側面を持っている。
『自由経済思想』が瞬く間に広がり、あっという間に戦乱期は収束してしまい、おそらくのところ、今後数十年から数百年の単位で、シェーランネルが国土を拡大することはほぼ不可能であろう。
(このままだと、本当に時代に取り残されてしまうわね――)
リシャールはこの難局を乗り切れる「何か」を次世代へと遺さねばならないと考えている。
(それにしても、この書類の山――。本当に紙がいくらあっても足りないわね。いっそ、紙を使わない方法があれば、もう少し部屋もすっきりするんだろうけど――)
そんなことをふっと考えるリシャールだった。




