第867話 『青天の霹靂』
クルシュ暦372年8月初旬――。
エルレア大陸北方の港町ポート・レウラ。
「はぁはぁ――。お~い! ルクレツィア! フィエルテだ!」
フィエルテ・ローズブラッシュはルクレツィアが戻ったという報告を受けて慌ててここまで馬を走らせてきた。
昨日、センターコートに報告が届いてすぐにここまで駆けてきたのだが、夜通し走り続けて、昼すぎにようやくここに到着したところだ。
やがて、船の舷から懐かしい顔がのぞく。
「フィエルテ司令――、どうしてこんなところまで?」
ルクレツィアの表情に困惑の色が浮かぶ。だが、フィエルテにとってみれば、その表情ですら愛おしく思える。
「お前が戻ってきたと聞いてな。慌てて飛んできたのだ――」
「はあ。別に用などありませんが? 補給が終わればすぐに発ちます――」
「だと思ったから、夜通し駆けてきたのだ。少し話せるか?」
「今? ですか?」
「ダメなのか?」
「いえ、別に駄目ではありませんが、そのう、戻ってきたばかりで――」
フィエルテは、もしや、海に居たから着替えもしていないと身支度のことを気にしているのではと察し、
「気にすることは無い。軍にいた時もそんなことは幾らでもあったではないか」
と、返してやる。
「何のことを仰っているのです? 軍にいた時とは?」
と、ルクレツィア。
「だから、風呂とか着替えの話だろう? 少しぐらい臭っても、気になどしな――あれ? ちがった? のか?」
「フィエルテ司令。私は二日に一度は湯に浸かっています。それは軍にいた時から変わりません!」
「あ、でも、今――」
「私は戻ったばかりでまだ船の残務があると言いたかったのです! 風呂の話など、していません!」
その言葉を残して、ルクレツィアは舷から姿を隠してしまった――。
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「もう機嫌を直してくれないか、ルクレツィア。私が悪かったよ」
フィエルテが自分に向かって何度も頭を下げている。
ルクレツィアとフィエルテは今、レ・フィーエ号の船長室のソファに腰かけて対峙している。
まったくこの司令は、わざわざポート・レウラまで馬を夜通し駆けさせてきたというが、一体何のためにやってきたのか。
「――それで、司令。一体何ごとですか? センターコートの方は大丈夫なのですか?」
『センターコート』というのはこのエルレア大陸統一王朝政府の庁舎がある地域を指す言葉だ。
つまりは、司令の役目やお仕事の方は大丈夫なのかという意である。
「ああ、大丈夫、大丈夫。私も三兵団を預かる立場になったとはいえ、よほどの大事でもなければ、三兵団すべてを動かすなんてことは無いからね。大抵はそれぞれの師団兵団長の決定までで充分なんだよ」
と、涼しい顔で応えるフィエルテ司令。
それにしても、いつにもまして、顔が緩んでいるように見えるのは気のせいか。
「――なんだか、気が抜けていませんか? いっそのこと、現場に戻られたらどうですか?」
と、嫌味の一つも言ってやる。
「そんなことはないだろう? これでも、レウスウィード司令の再来と呼ばれるほどの評判なんだよ? ルクレツィアは、北の大陸に行ってしまってたから知らないだろうが、この間は、ジグザル渓谷で――」
「ああ、別にレウスウィード卿にもジグザル渓谷にも興味はありません――。それで? 一体何用なのですか? それとも、それをわざわざ私に言いに来たとでも言うのですか?」
「うっ……、それはだな、そのう、わかるだろう?」
「わかりませんよ。なにか王朝からジルメーヌさまに言伝があるとか、ですか?」
「いや、別に何も、ない――」
「じゃあ、私に?」
「いや、王朝からは特に何もない――」
「じゃあ、一体何なんですか? これでも私は忙しいんです。準備が整い次第、北の大陸へ戻らねばなりませんので……」
「ルクレツィア!! 聞いてくれ!!」
「聞いているじゃないですか、さっきから――」
「結婚!!」
「はあ?」
「結婚したいと思ってるんだ!!」
「はあ、そうなんですね。それはおめでとうございます。それで? 相手の方は――」
「君、だよ――」
「キミさま?」
「違う! 名前じゃない! 君だよ君! ルクレツィア・ナイリー、私と結婚してほしい!」
「――へ? 私――ですか? どうして?」
「どうしてって、好いているからに決まってるだろう! 他にエルルートが婚姻する理由はないはずだが?」
「司令と私が? 結婚? 冗談は――」
「冗談じゃない。こんなこと、冗談では言えない――」
「え、でも、ええ~~!? 本気なんですか!?」
「ああ、本気だ。ただ、君にもいろいろとあるだろうから、僕の気持ちだけは伝えておこうと思っただけだ。すぐに返事がもらえるとは思っていない。でも、僕は本気だ」
「――――――」
ルクレツィアはあまりの急展開に言葉が継げなくなってしまった。
「――大丈夫。今日はとりあえず、僕の気持ちを伝えたかっただけだから。じゃあ、僕は戻るよ。ルクレツィア、航海の安全を願っている」
「あ、りがとう、ございます――」
かろうじてそう返すルクレツィア。
フィエルテ司令は本当にそのまま下船して、馬に跨ると、センターコートに向けて走り去ってしまった。




