第858話 夜に動く
キールが「夜に動く」ということは、それは、隠密行動を意味する。
なんだかんだ言っても、キールは魔術師なのだ。
人には表の顔があれば裏の顔がある――。
そういうものだと、キールは思っている。
その「表裏」がほとんど変わらない人ももちろんいるが、むしろそういう人の方が希少で少数派だということは考えるまでもない。
少なくとも、「社会」で見せている表情や人となりと、「家の中」で見せる表情や人となりの間には、多少なりとも差があるのが当然のことだ。
(裏の顔を見るのは夜がいい――)
なぜそうなのか――。
夜は「社会」が身を潜めるからだと、キールは思う。
この公国の領主である、シャルリンド伯爵がほとんど伯爵邸から出てこないことはジルベルトの調べで明らかになっている。
まだ独身で、邸宅では十数名の使用人と共に暮らしているらしい。
調べによれば、その使用人たちとシャルリンド伯爵との関係もとても良好で、使用人からシャルリンド伯爵に対する不満の類いは聞けなかったとジルベルトが言っていた。
(ここだな――。さあて、どうやって入り込むかだけど――)
邸宅から少し離れた場所に身を潜め、邸宅の様子を窺うキール。
2階は、シャルリンド伯爵の部屋にはまだ灯りが付いているが、そのほかの部屋はすべて消灯されている。
1階のほうは、玄関と、ほか一部屋に灯りが付いているが、その部屋はおそらく使用人の部屋だろう。
その玄関には衛兵が二人、門番をしている。
使用人の人数は全部で16人という報告が上がっている。
この16人すべてに『幻覚魔法』を使うのはかなり困難だ。効果時間も考えれば、全員を幻惑するのは、ほぼほぼ不可能だ――。
(仕方がない――。実戦初投入だけど、使ってみるか――)
――『光偏幻装』。
対象の物体に偏光幕を被せて、相手の視界からその物体を見えなくするという魔法だ。
『真魔術式総覧』のなかに収められていた魔術式で、最近の研究成果の一つでもある。
(自分自身にかけるのはこれが初めてなんだよな――)
まあ、うまく行くかどうかは置いておいて、併せて、隠蔽系の魔術式を使って忍び込むしか方法は無いだろう。
(体術の方は『氷結』仕込みだからな――。僕も随分と、体力や敏捷性に自信がついてきたよなぁ)
その体術を、こんな隠密行動に使っているということぐらい、『氷結』もすでに見抜いていることだろう。
(――ていうか、そもそも『氷結』も魔術師だからな。そのぐらいは当然想定内だろうさ)
キールは自身に『光偏幻装』の術式をかける。
その上で自分の腕を目の前まで上げて見せた。
何と言えばいいか、不思議な「見え方」だ。
「腕」は「腕」に見えないが、「腕」があるのはなんとなく見える。
しかし、おそらく遠目で見たら、そこに何かがあるというを認識するのはかなり難しいだろう。
(――ん? 『光学迷彩』って、どこかのマンガかアニメに――)
まあ、いい。
とにかく、これならいくらか誤魔化せるはずだ。
(さあ、いくぞ――)
キールはそう心を決めると、邸宅の方へとゆっくりと近づいて行った。
******
ロレアル・ヴァン・シャルリンドは、自室で、報告書に目を通していた。
今日の報告書の精査ももう少しで終わりそうだ。
時間はすでに深夜1時を回っている――。
とは言っても、これもまあ、いつものことだ。
最後の報告書に目を通し終わり、寝床に入ろうと椅子から立ち上がったとき、窓がコツコツと音を奏でるのが耳に入った。
(来たか――)
と、ロレアルは、驚きもせず、想定していたことが起きたことに喜びすら感じている。
「一応、聞いてもいいかい? こんな夜更けに窓からとは、どこのどちらさんだい?」
と、声を掛けてやる。
とはいえ、もちろんその人物の名前が何であるかはすでに『知っている』。
「すいません、夜分にこんなところから――。キール・ヴァイスと申します」
うら若き青年の声。
まさしく、あの声だ。
「キールくん。『稀代の魔術師』が私になんの用かね?」
もちろん用件も『知っている』。
が、敢えて聞くのが楽しいのだ。
「――実は、折り入ってご相談がありまして。ゲルカール商会とジェノワーズ商会の業務提携の件についてです」
声の主はそう返してくる。
想定内だ。
「どうしてこんな夜更けに?」
と、また、わかっていながら聞いてやる。
「昼間は警戒が厳しく、正面から会うしかないですからね。一度でも断られたら、二度と出会えない可能性もあります。僕はどうしてもあなたに会わなければならなかったんです」
その通りだ。
一度でも相手に警戒されれば、相手を出し抜いて話しかけるなど、なかなかにできるものではない。
それを考慮して、100%話せる方法を取ったということだろう。
現に今、こうして会話をしている。
「思考が魔術師的だな――。でも、商人には商人のやり方があり、貴族には貴族のやり方がある。魔術師が自分の本分を通すのももちろん悪くない――。わかったよ。今開けてやるから、静かに入っておいで。是非、会談をしようじゃないか」
ロレアルはそう言いながら、窓の方へと歩みを進めると、カーテンを引いてテラスを見た。
そこにはまさしく、『稀代』が居た。




