第848話 黒い霧の中
ルクレツィアは臆せずに進む。
艦隊間の交信はまだ保たれている。
『黒霧海』――。
入ってみれば、なんてことはない、ただの荒れ海だ。
確かに霧が他の場所に比べてやや黒く濁っているようで、視界が悪い。
だが、それ以外は、風雨の少しきつい荒れた海と変わりはなかった。
(しかし、これについては昔からそう報告が上がっている――)
問題は、『方向感覚』だ――。
これを維持するために今回は単独航海ではなく艦隊航海なのである。
『黒霧海』に入ったことのある船舶はこれまでに何隻かいる。
キールさまもその一人だが、経験者は皆一様に、『もう一度行きたいとは思えない』と口をそろえて言う。
その理由――。
それは、視界の悪さと風雨の強さから、『六分儀』が使えないということだ。
つまりは、『黒霧海』を抜け出るまで、ただひたすらに、「進む」しかない。
もちろん、どちらへ向かっているかなどわからないままに、である。
当然のことだが、海の上を何日もかけて航海していれば、天候の悪化はよくある話だ。
が、その前に、その天候の悪い海域も発見しやすく、あらかじめ避けて通ることが意外と容易い。
避けて通れるものを避けないで進むのは、今回のような何かしらの「目的」がある場合に限る。
なぜわざわざ直行せずに、迂回してでも避けるのか。
それが先に言った「理由」だ。
(単独航海で六分儀が使えないと、現在位置が把握できない――。だから今回は艦隊なのだ。隊列を保っていれば、艦隊が今どの方向を向いているかおおよそ把握できる――)
それに通信士の存在も大きい――。
艦隊の向きを変えたり、自船の向きを調整したりするために、彼らの『守護精霊』が大いに役立つ。
彼ら通信士に宿る『守護精霊』の特徴は、ある程度の距離を宿主から離れて行動でき、『言葉』または『信号』を伝え合うことができるという共通事項がある。
もちろん、空中を移動するか、まさしく『伝文を飛ばすか』して、だ。
エルルート族個人個人に宿る『守護精霊』――。
それがどうして存在するのかについて研究するのを、エルルート族は太古の昔にやめてしまっている。
どうして存在するのか、ではなく、それこそがエルルート族の証なのだと、今ではそのように教えを受けている。
(『黒霧海』に突入してから、そろそろ1時間――。これまでの記録によれば、抜けるのにかかった時間は、最短で1時間、最長で3時間だ。ここまで進路変更はしていない。風にあおられてはいるが、速度も中速で保てている――)
ルクレツィアは頭の中に海図を描き、思考を巡らせた。
(取り敢えず、このまま中速で突ききる。そうして、一度抜けたあと、座標確認と製図だ――)
ルクレツィアは方針を纏めた。
その時、不意に男の声が響いた。通信士だ。
「船長!! 最右舷の小型船から通信――! 右前方に島影が見えるとのことです!!」
「島影だと!? 見間違いじゃないのか?」
通信士の言葉に船長のサルバ・ジウラートがそう応じるのが耳に入る。
ついで、ルクレツィアに問いかけるサルバ。
「――提督、どうします?」
サルバが言っているのは、「接近するために針路を変えるか?」ということだろう。
「――いや、このまま進む。記録士に現時刻を記録させよ。それでおおよその場所は分かるはずだ」
「――わかりました。記録士に現時刻を記録せよと伝えます」
そう決定し、通信士には各艦への指示を走らせるようサルバが通信士に告げようとしたその時――。
「最右舷のトーラス号が変針!! 右に舵を切りましたぁ!!」
と、見張り台の上から声が落ちてくる。
「はぁ!? トーラス号は何をやっている!? すぐに隊列を戻せと通信しろ!!」
慌てた船長のサルバが通信士にそう告げた。
通信士は、はいと返事をするなり、自身の守護精霊の能力を発動させ、トーラス号まで『指示』を飛ばす。
「――ダメです! 通信が、できません!!」
「出来ないだと?」
「理由は分かりませんが、応答がありません!!」
「くぅ! 提督、どうなさいます!?」
こういう状況になれば、サルバの最後の問いはそうなると、ルクレツィアはすでに覚悟していた。
ルクレツィアの覚悟はすでに決まっている――。
「――サルバ、悪いが、私は一隻も失うつもりはない。仲間を見捨てて自分だけでも残ればいいなんて、そんなものが『提督』に任ぜられてよいはずがないだろう?」
「提督、ですが――」
「ああ、わかってる。だから、初めに『悪いが』とことわったのさ。こんな『提督』に付き合わせてすまない――」
「――へっ! 何をおっしゃいます。俺らはエルルートの船乗りですぜ? 必ず全艦無事で、帰って見せますよ?」
サルバがニヤリと口角を上げる。
ルクレツィアもこれに応じて、一瞬ふっと頬をほころばせたが、次の瞬間、きりりと唇を引き絞る。
「全艦に通達――!! 面舵30度! 転針だ! トーラス号を見失うな!!」
ルクレツィアの声が高く響いた。




