第845話 ジルベルトの焦り、通常運転のアステリッド
クルシュ暦372年7月中旬――。
この南の国は、相当に暑くなっている。
天高く照り付ける太陽は、じりじりと肌を焦がし、日向にずっといると、肌が焦げそうなぐらい痛みすら感じる。
ジルベルト・カバネラは、この国の伯爵領シャルラザンに来ていた。
シャルラザン公国の主都シャルル。
この街に潜伏してもうすでにひと月半を越えている。
(――ったく、どうにも腑に落ちねぇな)
ジルベルトは、この違和感が何なのか、その答えを突き止めるためにまだここにいる。
ゲルカール商会――。
『ルイの娼館』に、この国リトアーレにおいて、新規出店を打診してきた材木商だ。
ゲルカール商会の市中における評判は、全くと言っていいほど問題ない。
主たる業務である材木は適正な価格で取引されているし、納期もほとんど遅れがなく、品質も申し分ないという。
(傍から見れば、申し分のない『優良企業』なんだよな……。でもな――)
ここまで評判が良すぎるのも何かと不思議な話なのだ。
商売というのは、そう簡単なものではない。
すべての人が「いいこと」しか言わない商会なんて、あるわけがない。
どれだけ優良な商会であっても、従業員の中には不満を言うものが幾らかは居るはずだし、取引先の中には、不公平さを感じる者もいる。
また、商売敵にとっては、これほど評判のいい商会など。妬みの対象でしかないはずで、邪魔者以外のなにものでもないはずなのだ。
「違和感」が何なのか、これがわからないうちは内偵を終了するわけにはいかないと、ジルベルトはそう考えていた。
(このまま、『いい商会だった』では済まないんだよなぁ――)
その理由の根底にあるのは、ルイの言葉だ。
『シュニマルダとゲルカールにだけは敵対するな』。
ルイから聞いたこの言葉は、ルイの父がルイに言い含めた言葉だったらしい。
ルイの父、エドワーズは、ジルベルトの兄ゲオルグと関係のあった男だが、ジルベルトもゲオルグも、暗殺者集団『シュニマルダ』の構成員だった。
そのことはもちろん、エドワーズも知っていることだし、実際に、エドワーズは「私的に」ゲオルグに「依頼」をしていたと思われる。
(そんな暗殺者集団と並列で『敵対するな』と釘を刺すぐらいだ。何もないなんてありえないだろ?)
そういった『勘』がジルベルトの肌の内側をざわつかせている。
(――ちっ! 気持ち悪いんだよ。いい評判しかないなんてのがよ……)
人間なんてものは所詮は、自己顕示欲の塊だ。
ただそれが、人の役に立ったり、感謝されたり、慕われたりすることはある。
が、その反面、そういった『聖人君子』のようなものですら、妬まれ、恨まれ、煙たがられ、嫌われることがあるのは、人が人であるが故に逃れられない現実なのだと、ジルベルトはよく理解している。
それなのに、ゲルカール商会だけは、それが一切「ない」のだ。
金払いも、借金の取り立ても、とても丁寧で、融通も利くという。
取引先や関係者の連中は皆、これに感謝し、自ら進んでゲルカールの傘下に入ることを選ぶありさまだ。
(何もねぇわけあるかよ――!)
ジルベルトは何も掴めていないという事実を突きつけられて、焦りを感じていることを否定できなくなっている。
(元『シュニマルダ』も地に堕ちたもんだ――。少し、ぬるい環境に浸かり過ぎたか……)
自嘲が漏れる――。
が、必ず何かあるはずだ。
ジルベルトの眼にかつての光がわずかに戻りかけていた。
******
「キールさぁん! それでジルベルトさんはどこに居るんですぅ?」
アステリッドが、キールの背に体を寄せて耳元で叫ぶ。
最近、こうやってリーンアイムの背に二人が乗ることが多くなっているが、アステリッドがやや慣れてきたのか、キールの背に体を付けて話しかけてくることが増えたような気がする。
たしかに空の上を疾走していると、普通の距離だと風に巻かれて声が飛んでしまうことがあるから、アステリッドが体を寄せてくることには自然なことだ。
だけど――。
(当たってる、よなぁ――)
胸の感触――。
アステリッドのそれは、意外と質量があるらしく、どうしたって、気にならないわけはない。
ぞわりと背中を走る感触を、全く無視することができる男なんて、この世の中に存在しえないのだと、自己肯定しながら、かろうじて意識を外へ向けた。
「おそらくは、シャルルだろう。エルルートの『目』の最終報告がそこだったからね」
「シャルル、ですか。だったら、エルヴィンさんのユーチェ村からそれほど離れていませんね?」
たしかにアステリッドの言うとおりだ。
シャルザラン公国主都シャルルは、ユーチェ村から、北西へ十数キロ入ったあたりになる。
「――会いたいのかい?」
「――え? どうしてですか?」
「ん~~、なんて言うか、言い合う相手がいないと寂しいのかなとか……」
「はあ? 言い合う相手なんて、別に要らないですよ。疲れるだけですし――」
即答だった。
ならどうして、エルヴィンの話なんか出したのか。
(それにしても、この感触――。やっぱ、気になるよ~。少し離れてくれないかなぁ……)
キールは消えない背中の感覚とまだしばらく格闘しなければならないのだと覚悟した。




