冥王ハデス
願い。
その言葉を聞いて、俺は少しだけ考えた。
……いや、願い、というか。
ハデスが階段の上から俺たちを見渡した。
ハデスの視線が向けられるたび、誰かの肩がびくりと揺れた。
「まずは、お前からだ」
指名された男が、息を飲んだ。
旅装束の上から革の胸当てを着け、腰には短剣を差している。さっきまで何度も周囲を見回す落ち着きのなさが目立っていた男だ。
いざ自分の番になると、男は逃げ道を探すような視線を一度彷徨わせた後、意を決したように前を見据え、一歩前に歩み出た。
「お前の願いは何だ」
「……私は、果たせなかった使命を果たしたい」
男は一度唇を引き結び、それから顔を上げた。
声は震えていた。
「守れなかった人たちがいる。今度こそ、あいつらを守れるだけの力が欲しい」
言葉にしたことで、胸の奥にしまっていたものが形になったのだろう。
男の手が、短剣の柄を強く握りしめる。
ハデスは口を開かず、男を見据えていた。
その沈黙が、男にはひどく長く感じられたのかもしれない。男の喉が小さく動く。
やがて、ハデスは静かに口を開いた。
「その願い、確かに聞いた」
男は深々と頭を下げた。
願いを口にしたからといって、試練が軽くなるわけではない。
むしろ、自分が何のために命を懸けるのかを、改めて突きつけられたように見えた。
挑戦者たちはそれぞれの願いを口にした。
失った地位を取り戻したい者。
誰よりも強くなりたい者。
自分の名を後世に残したい者。
死んだ恋人の声を、もう一度聞きたい者。
罪を犯す前の自分に戻りたい者。
願いはさまざまで、けれど、どの言葉にも、簡単には手放せない重さがあった。
願いを口にするごとに、挑戦者達の顔から血の気が引いていく。
自分が何を求めているのかを、王の前で認めなければならないからだ。
それを改めて突きつけられて、己自身と向き合い、そして自分の覚悟と他者の覚悟を秤にかけているからだ。
「次」
ハデスの声に、俺は顔を上げた。
ニコラスが呼ばれたのだ。
「お前の望みは何だ」
「…………」
ニコラスは答えなかった。
いつもなら、すぐに冗談のひとつでも返してきそうなものなのに。
口元に浮かんでいた笑みは消え、琥珀色の瞳が、じっとハデスを見つめている。
その横顔は、さっきまでのニコラスとは別人のようだった。
思えば冥府の城門をくぐってから、こいつはずっと静かだった。
「聞こえなかったか」
「いえ。聞こえてますよ」
ニコラスは、いつもの調子に戻ったような声で答えた。
「ただ……願いっていうのは、そう簡単に人に話すもんじゃないでしょう?」
広間の空気が、わずかに張り詰める。
誰かが息を呑む。
ハデスはただ静かにニコラスを見ていた。
その沈黙の中で、ニコラスの指先が拳を握るかのように、わずかに動いた。
「そうか」
やがて、ハデスは短く答えた。
それ以上、ニコラスを追及することなく。
「ならば、次だ」
ニコラスが列から一歩下がる。
その横顔を、俺は思わず見つめてしまった。
——何を願ってるんだろう。
誰にでも聞かれたくないことはある。
「次。どうした?」
ふいにニコラスに頭を小突かれた。
顔を上げると、ハデスの視線が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
「は、はい!」
変な声が出た。
慌てて背筋を伸ばす。
「お前の願い、は何だ」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
広間にいる全員の視線が、こちらへ集まっている。
…………いや、だから。
俺は、願いを叶えてもらいに来たわけじゃないんだけど。
「あの……」
どう説明したものかと考えながら、俺は口を開いた。
「願い、というか。俺は、ひとつお尋ねしたいことがあって……」
ハデスの眉が、ほんのわずかに動いた。
周囲の挑戦者たちも、戸惑ったように顔を見合わせる。
「申してみよ」
ハデスの声が、先ほどよりわずかに低くなった。
「あの……うちのポチ、しりませんか?」
「ハデス様っ!」
ハデスの後ろに控えていた女が声を上げた。
玉座から立ち上がったハデスが、階段に足をかける。
一段。
また一段。
靴音が広間に響くたび、びくりと背筋が跳ねた。
俺、まずいこと言った、かも……?
ハデスが近づいてくる。
喉がひりつくほど口の中が乾いていった。
息をするたび、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。
俺の目の前で、ハデスが立ち止まった。
ニコラスが、慌てたように俺の前に腕を出した。
周りの人々は、床に膝をつき、深々と頭を下げる。
銀色の短髪。紅い眼。白い肌。
無表情の美形の威圧感たるや。
形の良い薄い唇が、動いた。
「ポチ?」
我ながら、この名前が目の前の美丈夫から発せられたことの違和感がすごい。
「あの、犬です。黒くて、こんくらいの大きさで」
「それを、探していると?」
「はい」
「……それは、願いではないのか?」
願いではある、けれど、ここにきた目的は——。
「はい。いろんな人が集まるって聞いたんで、何か、少しでも手がかりがあればと思って」
ハデスが沈黙した。
紅い視線が、ふいに俺の左手に移る。
手首にぶら下がった金貨が、かすかに揺れる。
ハデスの目が、細められた。
次の瞬間、俺の左腕が掴まれていた。
ニコラスが、剣に手をかけた。
ハデスに続いて階段を降りてきた、玉座の後ろに控えていた女が、身を挺するようにそれを制する。
「あの」
気づけば、声が出ていた。
「何だ、人間」
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
ニコラスが、信じられないものを見るような目を向けてきた。周囲がざわめく。
「言ってみろ」
目を細めたハデスに促されるままに、ずっとひっかかっていた疑問を口にする。
「どうして、十二の門を突破する人間を探しているんですか?」
大広間が静まり返った。
誰かが小さく息を呑む音がした。
「理由が知りたい、と?」
「……はい。その、貴方は、その人間に何を望んでいるのかと。願いを叶えるのは俺たちなのに、貴方には何の得があるんだろうって」
口にしてから、少し失礼だったかもしれないと思った。
だって、俺たちの誰かが願いを叶えたとして、この王様に何のメリットがあるんだって、不思議で。
俺が小さく首を傾げると、ハデスは少し間を置いた後、口を開いた。
「かつて、この十二の門をすべて突破した男がいた」
その声には、今までとは違う響きが混じっていた。
「名前はヘラクレス」
その名を聞いた瞬間、ニコラスが顔を上げた。
「奴は人の身でありながら、数々の試練を乗り越え、神々すら認める英雄になった男だ」
ハデスの声が少し弾んでいた。口調が少し砕けた気がする。まるで気安く友を自慢するかのような。
「だが、ヘラクレスは死んだ」
ハデスは遠くを見つめるように、わずかに目を細めた。
「俺は……」
そこでハデスは言葉を切った。
「私は、再びあのような英雄が現れることを望んでいる」
今、俺って言いかけた?
なんだか、随分とハデスの雰囲気が違う。
「あの……?」
俺の戸惑いを読み取ったのか、ハデスがまた声音を一つ低くした。
「力ある者は大勢いる。その力で、他者を踏みつける者もいる。しかし、力を持ちながら、それを誰かのために使える者は多くない」
その言葉は、思いのほか静かだった。
「十二の門は、ただ力の強さを試すためのものではない。困難に直面したとき、何を選び、何を守ろうとするのか。それを見極めるための試練でもある」
「ヘラクレスのような者が、再びこの世に現れること。いや、奴のような人間が現れるのかどうか、この目で見届けたい。——それが、私の望みだ」
ハデスの無表情だった顔が、わずかに笑ったように見えた。
なるほど。
分かったような、分からないような。
英雄を生み出したい。
言いたいことは分かる。けれど、それならどうして、わざわざ願いを叶えるという条件をつける必要があるんだろう。
そんな疑問が頭をよぎったものの、さすがにこれ以上質問を重ねる勇気はなかった。




