宰相レーテ
「あの、それって…、英雄に会いたいんですか?それとも……そのヘラクレスにもう一度会いたい……?」
「残念だが、そのポチを私は知らぬな」
俺の言葉は、確かにハデスの耳に届いていただろうに、冥王は目を伏せ小さく息を吐いた。
ヘラクレスにもう一度会いたい、なら、この王自身がその門とやらを越えればいい。
そもそも冥界だとて、死んだ人を蘇らせるなんて願い、叶えていいもんなのか?
「そうですか。……じゃあ、俺はこれで」
さて、ここからどうしようかと思案する。
手がかりがなくなっちまった。もう一回、カロンさんに聞いてみる……、いや、あの森を引き返すのは厳しいかも。
この話が終わったら、とりあえずここにいる人達に聞き込みをするしか——。
押し黙った俺の目の前で、ハデスが凛と正されてた姿勢を崩した。
重心を片足にかけて、腕を組む。
なんか、随分と雰囲気が…。
「俺は、お前がどのように十二門に挑むのかも見てみたい」
「……へ?」
紅い目が、不遜にこちらを見据えていた。
やっぱり俺って言ったなこの人。
「いや、俺は、ただポチを探しているだけで」
「悪い話じゃないと思うが?」
いやいや、命かかるやつだって聞いたけど。
「まだ探し始めたばかりですし」
「冥府は、広いぞ?」
「う……」
「当てはあるのか?」
「……っ、それは……」
「時間の浪費だな」
こっちの奴らって、なんでこんな口が悪いんだよ。
渋る俺の横で、ハデスの後ろに控えていた女の人が口を開く。
「大切な存在を取り戻したい。その願い自体は、かけがえのないものです」
柔らかく微笑み一歩俺の方へ歩み寄ってくる。
白い衣に、淡い金髪。王妃かと思ったが、彼女の声に広間がざわめいた。
「レーテ様だ」「お目にかかれるとは」「ご体調は問題ないのか」
周囲が小さくざわめいた。
柔らかい白の服を纏った女は、白みの強い金髪をふわりと肩へ下ろしている。
「宰相を務めております。レーテと申します」
「へ…」
秘書、かと思ったら、宰相とは。
「お話の途中に申し訳ございません」
けふり、とレーテが咳き込んだ。
柔らかな声に、ハデスが眉間に皺を寄せた。
「……お前は執務室にいろと言ったはずだ」
「はい。ですが、ヘラクレス様の死から数百年。ようやくお集まりになった挑戦者の皆様ですから……一目、お会いしたくて」
レーテは微笑んだまま、そっと胸元に手を添えた。
その指先が、わずかに震えている。
「ならば、もう十分だろう」
ハデスの声は低かった。
「これ以上、お前がここにいる必要はない」
「ですが、陛下——」
「レーテ」
名を呼ぶ声に、わずかな苛立ちが滲んだ。
しばし、二人の間に沈黙が落ちる。
やがてレーテは、困ったように目を細めた。
「……承知いたしました。お邪魔をして申し訳ありません」
「分かっているなら、早く戻れ」
ハデスはそれきり、彼女に背を向けた。
……うわ。言い方、きつすぎないか?
相手は宰相なんだろ。それに、あの人、さっきから顔色も悪いし、咳だってしてるし。
もう少し言いようがあるだろうに。
そう思った矢先、ハデスの組んだ腕に力がこもったのが見えた。
「キリオ様」
「あ、はい」
名前を呼ばれて顔をあげる。
ん?名前……。
「貴方の目的をお手伝いする方法のひとつに、きっとこの挑戦はお役に立つかと思います」
レーテが穏やかに微笑んだ。その顔色は、やはりひどく青白い。
「どうか、皆様、ご自身の願いを諦めないでくださいね」
そう言って、レーテは広間の人々へ静かに頭を下げた。
白い衣が翻り、彼女の姿が遠ざかっていく。
レーテの姿が扉の向こうへ消えると、広間は静寂に包まれた。
「……さて」
ハデスがひとつ息を吐く。
「話を戻そう」
先ほどまでの砕けた口調は消え、再び冥王の声になっていた。
「願いを叶えたければ、十二の門を越えろ」
誰かが剣を握り締めた音がした。
「キリオ」
突然名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
「ニコラス…」
「お前はどうする」
「いや、俺は……」
俺が迷っていると、隣からニコラスが顔を覗き込んできた。
「キリオ。お前、帰りたいのか?」
「違う……」
「じゃあ、進めばいいんじゃねぇのか?」
あまりにあっさり言われて、思わず顔を向ける。
「簡単に言うなよ。命がかかってるんだぞ」
「知ってる」
ニコラスは笑った。いつもの人懐っこい笑顔だったが、その目は少しも笑っていなかった。
「だからこそ、自分で決めろ」
俺は金貨を握りしめた。
「ポチ…」
もう一度会えたら、何を話そう。
謝りたいことなら、いくらでもある。
でも、もし会えたなら、今度は、後悔しないようにしたい。
そうだな、なんて言おう——『大好き』は、少しこっぱずかしいか。
顔を上げると、ハデスが俺を見据えていた。
「言い忘れていたが、門を通る以外に、冥府の各地へ赴く手段は、ないに等しい」
なんだよそれ。
ずるい言葉だと思った。
俺は一度だけ、深く息を吸った。
「……分かりました」
ハデスの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「そうか。ならば歓迎しよう、人間」
その笑みの意味を、俺はまだ知らなかった。




