剣士ニコラス
城を背に、俺は森を振り返っていた。
消えてしまった黒い狼の姿を、もう一度見つけられないかと思って。
背後から人の声が聞こえた。
人がいる。
生きている、人だ。
川から森に入った時ほどの人数はいないが、あの時は人影でしか認識できなかった人たちが、はっきりと見えた。
鎧を着た者、鉈を持った者、疲れ切ったように座り込む者、森から出ると同時に倒れる者。
みな、程度の差こそあれ傷だらけだった。
なんだか、視線が痛い。みんながピリピリしている。
脚にこびりついた泥を落としながら首を竦める。なんか、居心地悪いな。
「おー、お前、なんかすげぇ奴だったりする?」
「え?」
背後からがしりと肩を組まれた。
「俺、ニコラス」
長身の男が、人懐こい笑顔でこちらを覗き込んできた。
「あ、どうも。犬塚桐緒です」
「イヌ、…」
「桐緒」
「キリオ」
無骨そうな身なりなのに、あまりに無邪気に笑う男は、にっかりと口角を挙げると俺より歳下のようにも見えた。
「えっと…ニコラス、さん?」
「ああ、ニコラスな。言ってみ?」
「…ニコラス」
「おう!ニックでもニッキーでもニコラでもコリンでもコールでもいいぞ」
適当すぎん?
ガシガシと髪を掻き回された。
「なんかめっちゃ見られてるんですけど」
周囲からの視線が痛い。
そりゃそうだ。森を抜けてみんな疲弊してんのに、こんなに元気な大男に絡まれてたら注目も浴びる…
「だってお前、この森抜けてんのに無傷?じゃん?」
「え、俺?」
改めて周りから注がれる視線を確認し、周囲の囁きに耳を傾ける。
「あいつ、なんだ?」
「布きれの服だけで」
「武器は?」
「ほんとだ、怪我も何もしてねぇぞ」
「この森抜けてか?」
「気味が悪い」
「デカい蜂に、蜘蛛。蛇。熊に野犬に人喰いコンドル。斬っても斬ってもいなくならんし、もう俺、腹一杯よ?」
がしりと俺の肩をホールドしたままのニコラスの腕は、複数の切り傷から血が滲んでいた。
「で、お前すげぇ奴なの?」
ニコラスが、目を細めて最初の質問を繰り返した。
「いや、俺は、ヒルにはあったけど、全力で逃げたし…、そんな沢山のバケモノには全然。……ひとつも会わずにここまで来れて」
「へぇ、お前、随分と運が良い」
ニコラスが面白そうに喉を鳴らした。
そんなに沢山の生き物なんて——。
もう一度、狼が消えた森を振り返る。
〝運が良い〟
「…………ああ、そうみたいだ」
森から、人間の悲鳴が聞こえた。
俺は反射的に後ずさった。
さっきまで自分が歩いてきた森が、急に別の場所に見えた。
「運ってのはさぁ、そいつがちゃーんと積み重ねたものがあって、掴めるもんだろ?」
悲鳴の先、暗い森を見つめながらニコラスが呟く。
「ここまで来た幸運同士、お互い頑張ろうな」
「あ、うん?」
頑張るって、なに?
差し出された手に握手をした手首で、首輪のコインが揺れた。
「で、お前は何をお願いすんの?」
目の前の長身がことりと首を傾げた。
「あ、俺は、ポチ……犬を探してて」
「犬?飼い犬か?」
「うん、まあ」
「それが願い?」
「と、いうか…今探してる途中で。城に行けば人も集まるから、手がかりがあるかなって」
「まじ?」
「知らない?黒くて、こんくらいの犬なんだけど」
俺の手振りに、ニコラスが吹き出した。
「犬探しに城へ、か。そうか。そうか…」
目の前の口角が静かな三日月を描く。
琥珀のような瞳に射抜かれた。
男の真意が底知れなくて、俺は思わず、その目を見つめ返していた。
次の瞬間、ニコラスが腰に携えていた剣を抜いた。
その刃が顔の真横を通り、切っ先が俺の背後にいるものに突き付けられた。
ニコラスの双眸が細められる。
「——だってよ。あんたら、挑戦者ならそんな闇討ちみたいなのヤメたら?」
薄く嗤った唇から出た、ドスの効いた低音に背後で息を呑む気配がした。
複数の足音が遠ざかっていく。
「な、に…」
「なんでも、願いを叶えられるのはひとりって話だからなぁ。ここで候補者減らしとこうってとこだったんじゃねーの?」
俺、襲われるとこだったってことか。
「気づかなかった…」
ニコラスが、俺の頬のすぐ横に振り上げていた剣を降ろした。その刃が視界を通り、尻から股間にかけてがひゅっと縮こまる。こっわ。
「お前、さっきので動かないとか度胸あんなぁ!」
不敵な笑みを崩し、にへらと笑ったニコラスの顔には、人懐こい犬のような幼さすら感じた。
「やっぱ、なんか鍛えてる?」
いえ、目で追えなかったし反応できずに固まってただけです。
「俺もカッコつけちまったからさぁ!ちょっと勢いつきすぎて、思ったより首ギリギリだったから焦ったー」
いや、まじ、俺が動いてたらどうしてたんだこの人。
笑い話にしていい距離じゃなかっただろ、あれは。
ただ、俺を襲おうとした連中を追い払ってくれたのは事実で。
「助けてくれて、ありがとう」
「お、素直」
「なんで助けてくれたんだ?」
「ん?」
その俺の言葉に、ニコラスは豪快な笑顔を引っ込めた。
「ひとりしか願いを叶えてもらえないなら、人は減った方が、都合いいんじゃないの?」
「まぁ、見捨てるのも、………お前ごとそのまま全員斬り捨てるってのも、できなくなかったけど」
ニコラスがもう一度嗤った。
「お前が目を逸らさなかったから」
「……それだけ?」
「それだけじゃ不満か?」
その言葉に返事をしようとしたとき、背後で鈍い音が響いた。
城門が、ゆっくりと開いていく。
門の向こうは、黒い外套を纏った人が道を作るように並んでいる。
そのうち一人が歩みでて、俺たちを見渡して言った。
「——ようこそ。十二の門の挑戦者たちよ」




