ボビー•ザ•ワンダードッグ
「てめェは、死に急いでんのか?」
狼に襟首を噛まれて引き寄せられた俺の右脚は泥で汚れていた。ちなみに、左の袖は謎の液体に溶かされている。
「いや、そんなつもりは」
去ろうとする狼を追いかけようとした俺は、ものの数歩で沼に足を取られ、仕方なしに引き揚げられたと思いきや、ものの数秒で謎の巨大植物に襲われて。
それを見兼ねて助けてくれた狼からの一言だった。
狼が深いため息をつく。
「何度もお手数をおかけして、」
グルル、と狼の喉の奥が鳴った。
「ちょ、そんなに怒んなよ、ごめんって」
「少し黙れ」
狼が威嚇のように姿勢を低くして、深い森に沈み込むような唸り声を響かせる。
一気に周囲に生命の気配が溢れた。
こんなに周りに「何か」がいたなんて——。
草木を踏む音と、葉を掻き分ける音、鳥の羽ばたき。何かが一斉に動き出したかと思いきや、辺りには再び静寂が訪れた。
「今の何?」
「黙れ、行くぞ」
「え、あ、ちょ!」
歩くたびに、狼の黒い毛皮が、暗い森の中でも艶やかにきらめいている。
どこに向かってるんだろう。
行くぞというから、反射的についてきてしまったけれど。
狼の足取りには迷いがなかった。
「なぁ…、犬って道に迷ったりするのか?」
「ああん?なんで俺に聞く」
犬という単語が気に障ったらしく、鼻先に皺を寄せながら黒い狼が唸り声を上げた。
同じイヌ科の括りも、お気に召さないらしい。
「俺さ、迷子になった犬が、4000km離れた飼い主のとこまで帰ってきた話を聞いたことがあって」
昔見たテレビ番組の海外の犬の話だ。
あの犬は何を頼りに飼い主のもとまで帰れたのだろう。匂いなのか、記憶なのか。
こんな森ですら迷っている俺は、ポチをどうやって見つけたらいいのだろう。
「4000km?」
「そう、すごいだろう?」
「てめェらが勝手に作り出した単位なんぞ知らねェ」
「えー。そうだなぁ、俺が今のこの速さで歩き続けたとして…40日とか?」
ちなみに、休みも眠りもせずに同じ速度で歩いたとしてね。
「すごいよなぁ…」
諦めなかった距離も時間も、そして相手を見つけ出せる絆も。
「ハッ。んなもん——」
狼が足を止める。
こちらを振り向いた金色の眼が、俺を捉えた。
「俺なら、一晩もせずに辿り着く——」
こくりと色を増した瞳から、眼が逸らせなかった。
「そうか……。あんた足、速いんだな……?」
つーか、なんで歩速合わせてくれてんの?
俺の言葉に、狼は大きくため息を漏らし、再び歩きはじめた。
「森」
「ん?」
「抜けるぞ」
顔を上げると、久々の空が樹々の隙間から覗いていた。
相変わらず、オレンジと群青の混じる、不思議な色の空。
その下に、目指す城があった。
「なんだよ、あんた。結局案内してくれてたんじゃん」
ありがとう、その言葉を発するために振り返った先に狼の姿はなく、鬱蒼とした森だけが静かに広がっていた。




