うちのポチしりませんか
——まずい。迷子だ。
カロンと別れ、川から上がってすぐは、樹々の間から、足元に光が降り注ぐ森だったが、そこから進めば進むほど、俺は生い茂った深い森の中に迷い込んでしまっていた。
見上げれば、生い茂る木、木、木、ときどき虫。そして、木。
川岸から確認したはずの城なんてとっくに見えない。
空を覆う木の枝と葉に日は遮られて、どこまでも仄暗い。
一緒に森へ入ったはずの人影は見えなくなってしまっていた。
お互いが光を求めて競いあったかのように、うねりながら空を目指す大きな幹の間を、躓きそうになりながら歩く。
なんとか歩けるこの道は、先に森に入った誰かが切り開いたものなのか。それとも、何かしらの獣が使っている道なのか。
後者でないことを祈りつつ、それでも歩くしかなかった。
だって戻ろうにも、もと来た方角すらわからない。
ほら、やっぱカロンが必要だった。
「無理言ってでも、ついてきてもらった方がよかったなぁ…」
金色の三つ編みが恋しい。
盛り上がった木の根っこを乗り越えて、顔を上げる。
一際大きな木の幹のもとに、座り込んでいる人影が見えた。
人だ!
「あの!すみませ……!」
出した声が尻すぼみになった。
——人だ。
確かに、人だった。
乾涸びて、ガリガリのミイラみたいになった、人だ。
違和感に頭上を仰ぐ。
葉だと思っていた枝にかかり揺れる大量の布。
「服……?」
それを凝視する。しなきゃよかった。
「…………っ!!!」
悍ましさに吐き気がした。
服が掛かっていると思った枝。その一本一本に、干からびた人間がぶら下がっていた。
ぽとりと、冷たいものが降ってきた。
透明で、水よりも粘性があって。
もう一度目を凝らす。見えたのは、巨大な木の幹に無数に張り付く…
「……ヒ、ル?」
一匹がまるで筋肉の塊のような身体を縮めた。そのまま木の幹から飛び退く。
頭上から降ってくる、てらてらした、塊。
「で……、うぇ、で……っ!?」
でっっっか!!!
足元30cm程度のところにぼとりと落ちたそれは、そこらの太めの愛されコーギーくらいはありそうで。
ヒル?ヒルだよな?こんなん、血を吸われたら、そりゃあ乾涸びるわ。
蠢く足元の巨大ヒルを蹴り飛ばす。と同時に、それがぱっくりと口を開けた。金切り声が響く。そこには何列にも並んだ歯、歯、歯。
「嘘だろ」
雑巾を一気に絞ったかのように、粘液がぼとりぼとりと降り始めた。
木の幹に張り付いたヒルが、一斉に身体を縮めた。
ぬらりとした肉の塊が、次々に宙へ跳ぶ。
「……まじ?」
逃げろ。
そう思ったときには、もう遅かった。
1匹でも吸いつかれ、いや、喰いつかれたら死ぬ。
筋肉の塊達は、身体をバネのようにして跳ねながらこちらに向かってくる。
ああ、やっぱりカロンは連れてこなくて正解だった。
どうすれば、一番痛くないだろうか。
おろし金のような歯に皮膚をずたずたにされる様子を想像して、目を瞑った。
せめて痛くない死に方であってくれ。
全身に力がこもる。
刹那、ブツリとも、バツンとも形容できる破裂音が耳に届いた。頬に何かぬるりとしたものがぶつかった。
「痛っ……!……くない」
目を開けると、足元には踏み潰されて破裂したように肉片をぶちまけた、巨大なヒルであったもの、と——。
「この馬鹿が。走れ!」
地を這うような声に促されるまま、背中を押されるまま、俺は森をひたすら走った。
何年ぶりの全力疾走だっただろうか。
「あの、俺…」
さらに進んだ森の深部。
だいぶ暗さには慣れてきたもののまだはっきりとしない俺の視界に、金色の眼が二つ浮かんでいた。
「てめェ、あんな雑魚に」
重低音が、唸り声混じりの言葉を吐き捨てた。
剥き出しの牙、長い毛皮。
これを、自分が言うことになる日が来るとは。
「犬が、喋ってる」
「誰が犬だ」
即座に言葉尻に食いつかれた。
やっぱり喋ってる。
デカい。さっきのヒルもデカかったが、この犬もデカい。
川で会ったヘルハウンドなんて目じゃないくらい。だって、四足歩行で立った姿で、目線が俺と同じ、だなんて。冥界なんでもありだな。
——ヘルハウンドといえば。
「あんた、もしかしてさっき助けてくれた…」
犬。と言いかけて口をつぐむ。
俺がそう言うのを見越していたかのように、言葉にする前に押し倒されて、首元に歯を立てられたから。
言葉を交わせることに油断していた。
「あの、」
「犬では、ない」
そのまま食いちぎられるのかと思ったが、喉から搾り出されるようなその声とともに、身体の上から巨体が退いた。
じっとその姿を見つめる。
がっしりとした顎と長いマズル。深い胸郭に、長い四肢。背中は無駄な隆起をせずに腰から太い尾までなだらかに落ちている。
その身体がゆっくりと歩き出した。
肩甲骨が毛皮の下を滑り、歩くたびに筋肉の波が走る。
胴は全く揺れず、一直線上に四本の脚が運ばれていた。
俺の知っている犬とは何かが全く違う。
狼、…だろうか。
「ついてくんな」
「でも俺、この森から出られなくて」
「はぁ?知るか」
「俺、どうしてもやらなきゃいけないことがあって」
「勝手に話を続けんな」
「ちょ、待って、なぁ!」
「うざい」
「うちのポチ、しりませんか?」
狼が、真っ直ぐな耳をピクリと動かした。
「あん?」
「犬です。こんぐらいの大きさで、黒くて」
「…………知るか」
金色の眼が、身振り手振りで説明する俺のことをじっと見つめていた。




