願い
「さて、行くか」
依然、霧に消え続ける人々を横目にカロンが歩き出した。
首に手をやると、傷から流れたぬるい血が手の平についた。鼻を近づけると、ほんの少しだけ鉄臭かった。
痛い。
「なぁ、ここ、本当に夢じゃないってこと?」
「まだ迷うか。ここは冥界。……お前が信じようがいまいがどうでもよい。が、いい加減前を向け」
「前って、どこに向かってるかも聞いてないんですけど。挑戦者って何。願いを叶えてくれる?とか聞いたけど、」
「うるさいな。詳しくは知らん」
「え、ちょ、知らないの?」
「ああ。私はここまでしか知らない」
ここまで?
どういう意味だ、と聞く前に、カロンは霧の向こうの川岸を見つめて呟いた。
「私が渡し守を務めるようになってから、選別を越えてこの岸にたどり着いた者は、数百年ぶりだ」
「え?」
カロンの言葉に周囲を見渡すと、水音と同時に岸へと上がる複数の人影が見えた。それとは別に、黒い外套を纏い水面に浮いている影がいくつか。彼らもカロンなのだろうか。
「今まで誰ひとり突破できなかったのに、今回はなぜ……」
カロンが、今まで渡ってきた黒い川を振り返った。
「まさか、今までの選別にもヘルハウンドが……?」
ぶつぶつとカロンが呟く。
「あの、カロンさん?」
「わからん。まぁ、どうでもいい。私の役目は案内のみ。これ以上は、実際に王に聞け」
「王って…」
「冥界の王だ」
まじか。急にファンタジーRPGみたいになったんだけど。
「会えるの?」
序盤で?王様に?
「お前らを集めている主催者だからな」
「なんで冥界の王様が願い事叶えてくれるキャンペーンなんかして……」
「だから知るか。私は私の仕事をしているだけだ」
「ふーん」
カロンの返答はぶっきらぼうで、こちらを振り向いてすらくれなかったが、それでもなんだかんだ問答に付き合ってくれる律儀な後ろ姿を見つめる。金色の髪が、黒い川の中でほのかに光って見えた。それはまるで、俺を導く道しるべみたいだった。
幻影を見せられた上に怪物にも襲われた不気味な川のど真ん中だったのに、迷わず真っ直ぐ進むことができたのはこの後ろ姿のおかげで——こういうのを、なんて呼ぶんだっけ。
ふと、揺れる三つ編みが止まった。
いきなりのことにつんのめった俺の方へと、水飛沫がかかる。振り向いたカロンにジトリとした目で見上げられた。
「で?」
「……?」
「お前の願いは何だ?」
「願い?」
「あの選別を越えることのできた者は、それ相応の強い願いがあるはずだろう」
カロンが鋭い眼光でこちらを睨みつけてくる。
口調も相変わらず強い。なのになんで、そんなに不安そうなんだよあんた。
答えに窮していると、カロンが岸へと顎をしゃくった。素直に岸へと足をかける。水に濡れた身体が重い。カロンの青い目がこちらを見ている。
「いや。願い、というかさ。……冥界って、死んだ奴が来るんすよね?」
「基本は、そうだな」
「犬も?」
「ああ。ヘルハウンドを見ただろう。大抵の犬は正しく導かれれば悪いところへ行くことはない。ただ、野生化すれば、あのザマだ」
「そっか」
つまり、ここが冥界なら、死んだポチもどこかにいるかもしれないってことだな。それって……。
「…いや、まずいな」
正しく導かれればっていうのが、こうやってカロンみたいなのにちゃんとついて行くってことだとしたら、うん、だめだ。
あいつが素直に、誰かについていく姿は想像つかない。もともと野良犬だったし、無愛想で、人には全然懐かないような犬で。たとえ、お迎えが同じ犬だろうがだめだ。絶対無視するじゃんあいつ。あれ、まじで、あいつ、ヘルハウンドまっしぐらなんじゃ……?
「どうした?」
「俺、ポチを探さなきゃ」
「は?」
素直じゃない、なんて可愛い評価は飼い主の贔屓目で多大に捻じ曲げられた表現だ。
「あいつ、まじで偏屈だから……!」
あいつが野良犬になる前に。俺が——。
「俺は、ポチに会う」
「それが、お前の願いか?」
カロンが静かに問うた。
「そう。でも俺は、願いを誰かに叶えてもらいたいわけじゃない」
「あの時、ポチが俺を見つけてくれたんだ」
願いは、口にし続けろ——。
ヘレネスの声が聞こえた気がした。
「今度は俺が、冥界でポチを見つける」
手の中に握りしめていた赤い首輪を、手首に2回巻きつけた。
カロンが、少し呆れたように眉を下げて、ふわりと笑った。
「そうか」
遠くを見つめる目が、小さく光を反射した。
「自分で探す、か」
「いや、でもあれだよな。野生化してヤバいのになる前に見つけなきゃだし、もうあんなのになってたらどうしよう!こんな悠長に言ってる暇ねぇか!」
「そうだな」
カロンが喉を鳴らして笑った。
「やはりお前は、王に会うべきだ」
赤い首輪のコインが揺れる。
「人も集まる。少なくとも、手がかりのために行ってみる価値はあるだろう?」
小首を傾げたカロンが岸に上がった俺の背中を押した。
その細い腕を取る。
そうだ。RPGってんなら、仲間が必要だ。
「なぁ、せっかくだからカロンさんも来ないか?」
「はぁ?」
「だって、あんたは俺のカロンなんだろう?」
「は、はぁっ……!?」
カロンの指が、手元の帳簿をぎゅっと握った。
「いや、今のは違くて、俺の担当のカロンって意味で……!で、あんたが案内してくれると安心だし、なんかその……暗い中の希望、みたいだった」
自分で言っていて、恥ずかしすぎる科白だったと急いで顔を俯けた。いや、本心だし、間違ってないんだけどもっと言葉があった気はする。ええと、懐中電灯、じゃなくて、とにかく——
「よかったら」
「無理だ」
「即答…」
想像以上に食い気味に断られて、少しへこむ。
そりゃそうか。いきなりこんなこと言われても無理だよな。カロンもカロンのやることがあるだろうし。
「さっきも人手不足だって言ってたもんな」
カロンが目を伏せた。
「そうだ。何年も何百年も亡者の名前を聞き、金を取り、また名前を聞き。忙しすぎるほどに忙しい。目が回る毎日だ。自分が何者かすら忘れてしまうくらいに」
「カロンってブラック企業なの?」
「なんだそれは」
「労基ないわけ?」
「だから、それはなんなんだ」
吹き出したカロンが、霧の向こうへ指を差した。
「もう私が先導しなくてもいいだろう。ほら。あの城だ」
岸に上がった人影達も、一様に同じ方向を目指している。
「うわ、魔王城じゃん」
あの目印なら、見失いそうにはない。
もう一度、カロンが川の中から俺の背中を押した。
「お前は、願いを大切に」
「ああ。ありがとう、カロンさん。またな」
金髪の少女は、川岸から遠ざかっていく人影たちを見送った。彼らは森へ続く道を進み、やがて霧の向こうへ消えていく。
「行きたくとも、無理なんだよ。キリオ」
カロンは、誰もいなくなった川岸で小さく呟いた。
「私は、ここから出られない」
その顔が、くしゃりと歪んだ。
足元の黒い水面に、小さな波紋が浮かんだ。




