渡守カロン
カロンに先導されるまま、俺は水辺を移動する。
振り向けばもう行列があんなに遠くに見える。その列は俺が思っていた以上の人数で出来ているようだった。
金色の三つ編みが、俺の目線より低いところでひょこひょこと揺れている。
どう見ても小学生くらいの女の子が歩いているだけなのに、やはり俺の息だけが切れていた。
「なぁ、カロン……さん」
ちゃん付けするにはいささかカロンの威厳のようなものに気圧されて、迷った末に敬称をつけて呼びかける。
「願い、ってさ」
ヘレネスも同様のことを言ってた。願いは口にし続けろ、と。先ほどカロンは、願いがあるのなら、迷わず、留まらず、進めと言っていた。
夢は、深層心理の表れというけれど、夢の中でここまで願いに言及されると考えてしまう。俺の願いは何だろうか。
そうだ。今俺はポチを探している。
でもそれは、ポチの亡骸の行方であって。俺はもう本当の意味でポチに会うことは出来ない。どんなに、願っても。だって俺は、間に合わなかったんだから。
大事な家族を亡くしてすぐに、それに会いたいだなんて、伝えたい言葉があるだなんて、叶わない願いを強く自覚させられて、胸の痛みで息が詰まった。なんて胸糞悪い夢だ。
「夢、だと?」
カロンが足を止めた。
あれ、俺、今、口に出してた?
「夢だと言うのなら、お前が目を背けているだろう、この水の感触はどうだ?足の疲れは?肺に注ぎ込まれる水気を帯びた冷たい空気と、それに混じる土の香り。お前の手の中の首輪は?皮の質感。コインの質感。お前は夢の中ですら、そんなにも精密にものを想い起こせるほどに、繊細な脳みそを持っているとでもいうのか?」
「いや、それは……」
だから、なんでそんなに辛口なのかな、この女児。
カロンの言う通り、靴に染み込んできた水が冷たく靴擦れに沁みた。
——いや、てか、なんで水に入り始めてるんだ?見渡せども、周囲にはただ黒い水が広がるだけ。確かこの子、渡守って言ったよな。
「なぁ、歩いて渡るわけ?舟は?」
「案ずるな。深いところで、お前らの腰程度だ」
あ、え、本気で歩いて渡るの?
静かに凪いでいるようには見えるものの、流れる川で腰の深さって、結構まずいんじゃ。いや、それよりも——。
「そんなの、カロンさんの背丈じゃ」
「何か?」
碧眼がギロリとこちらを振り向いた。
「いえ……」
目の前の光景に息を呑む。
「なんでもないっす」
すでに俺は足首まで水に浸かっているのに、カロンのその足は、何故だか水面の上を当たり前のように歩いていた。
数メートル先も見えない霧が僅かに晴れてきた。
水位はもうふくらはぎ程になっている。
黒い川を進む黒い影がちらほらと見えてきたかと思うと、気付けば周囲には同じように歩いて川を渡る人々が集まっていた。
カロンの姿が見えない。
「君も願いを叶えにきたのかい?」
きょろきょろと辺りを見渡していると、隣に並んだ男が声をかけてきた。
「願い?」
「そうだよ。ここは一般の死者とは別に、願いを叶えるために選ばれた者が、導かれる道だ。カロン様がそう仰っていた」
「そうなのか?」
俺のカロン様はそんなこと教えてくれなかったけど。
「君の願いは?僕は、会いたい人がいてね」
「会いたい人……」
ふと、隣の彼が歩みを止めた。顔を覗き込むと、何かに驚いたように目を見開いている。視線の先に顔を向けたが、俺には深い霧が見えるだけだった。
「あの、」
「エリザ……、ああ、会いたかったよ。本当に君なんだね……」
「なぁ!ちょっと、待って」
男は俺の声などまるで聞こえていないかのように、膝ほどの水位になった川を掻き分けながら、霧の向こうに消えていった。
見渡せば、先ほどの男と同じように霧へと消えていく人々がいた。ある者は感嘆の声を上げ、ある者は歓喜し、ある者は涙を流して——。
「なんなんだよ、一体……」
彼らの見ているものを捉えようと、目を細めるも、そこには深い霧と、黒い川しか見えなくて、瞬きを数回。ふと、水面が揺らぎ、黒い尾が視界の端で揺れた。
「……ポチ?」
俺の声に反応するように、水に濡れた黒い犬が、近くの大きな岩へと駆け上がった。
「……ポチ、か?」
口から覗く赤い舌。蜂蜜みたいな黄色い眼。
なんでここに——。
「ポチっ!」
おいで、と腕を広げる。
気付けば頬を涙が伝っていた。
黒い尾が千切れんばかりに振り回されて、黒い体がこちらに飛び込んでくる。
それを俺は、咄嗟に避けた。
同時に開かれた唾を垂らす大きな口。
犬の牙が俺の首を掠めた。
こちらを振り向いて姿勢を低くした犬の姿が、みるみると痩せ細り、抜け落ちた毛皮を纏い凶暴な牙を剥く、視線の定まらない獰猛な獣の姿となった。
もう一度、その犬がこちらへ跳躍する。服の裾が引かれた。気付けば群れに囲まれていて。腐敗臭がする。
まずいだろ、これ——。
刹那、俺の目の前に群れの犬よりひと回り大きな四足歩行の生き物が現れた。
黒い犬、いや、狼?
その狼に首元を噛みつかれ、きゃうん、情けなく泣いた犬の声を皮切りに、集まっていたはずの犬達は散り散りに去っていく。
黒い狼が、ふぁさりと尾を揺らしながら、俺には一瞥もくれずに霧の中へと消えていった。
「おかしいな……選別の篩は幻影だけだと聞いていた。こんなものが紛れ込むはずがないのだが…」
狼にやられた犬を見て、聞き覚えのある声が呟いた。
「念のため聞くが、無事か?」
川の中にしゃがみ込み放心していた俺に、ぶっきらぼうな声が投げかけられた。
「カロン、さん」
「ヘルハウンドが襲ってくるとは、想定外だ」
「ヘルハウンド?」
「死後に導かれずに迷い、野生化した犬達だ。普段は統率の取れた群れで獲物を狩る」
青い視線が、倒れた貧相な犬に向けられた。
「ちょうど仲間割れをしていたのか、縄張り争い中だったのか……運がよかったな」
仲間割れ……だったのだろうか。最後に出てきた狼の姿が、網膜に焼き付いている。
首の傷が、痛い。
「なぜ、最初の一撃を避けた?」
カロンの問いはひどく静かだった。
「なぜって?」
「お前も幻影にかかっていただろう?願いを映す幻影だ。お前には、あのヘルハウンドがお前の犬に見えていたのではないか?現にお前は、アレに向かって腕を広げていた」
見てたなら助けてくれよ。
「うちのポチは、俺を見てあんなにあからさまに、ぶんぶん尻尾を振ってくれやしないんすよ。ましてやおいでなんて手を広げても、そこに飛び込んでくるような奴じゃない」
「へぇ。そうか」
目を伏せて答えたカロンの声は、なんだか少しだけ弾んで嬉しそうに聞こえた。
「おめでとう。お前は合格だ」
「は?何が?」
「挑戦者が多くてな。ここで篩にかけたんだ」
「挑戦者?」
「願いをひとつ、叶える旅路への挑戦者。ここは選別の川。その者の願いや欲を、幻影に乗せて誘い出す霧の罠。霧に呑まれたものは、永遠にこの川から出られない」
——どれほど出たいと、願っても。
カロンが小さく呟いた。
またひとり、またひとりと目の前で霧の中に人影が消えていく。
「あの人達はどうなるんだ?」
「さぁ?カロンとして労働でもしてもらうかな。……いつでも我らは人手不足だから」
「悪趣味だな」
「そうかもしれないな」
カロンが少しだけ傷ついたように笑った。
「目の前のものに囚われてまがい物を本物だと見抜けぬような、直ぐ手に届くことを疑えぬような者の願いなど、叶えるに値しない……とのことだ」
そのカロンの言葉は、霧に誘われる人々を非難するようでいて、どこか自嘲の音を孕んでいた。




