冥界への扉
ポチの首輪を指さしていたオッサンが、くるりと俺に背中を向けて歩き出した。
黒い外套が揺れる。
「私はプシューコポンポス」
「……ぽこぽこ?」
「プシューコポンポス」
「ぽむぽむ…」
「ヘレネスでよい。ついてきなさい」
「オッサ…ヘレネスさん、俺帰らないとだから」
「無理だな」
「へ、なんで」
「それを持って、冥界の扉を、通ってきたのだろう?」
「……………はい?めい、かい?」
俺の言葉にヘレネスは両手を広げて空を仰いだ。
誘われるように、一緒に空を見上げる。
少しひんやりとした空気が肺を満たした。不気味なのに神秘的な、不思議な色の、空。
「壮大であったろう。冥界の扉は。名匠を集め創らせられたと言われる石の門。幾千年もの時間をかけて彫られたその柱に絡み合う無数の蛇と人間、上部には巨大な怪鳥が鉤爪を伸ばし翼を広げ、訪れるものを拒むでもなく歓迎するでもなく、悠然とそこに存在する…!」
「……扉?」
「我々はこちらで迎える立場、扉を仰ぎ見ることは叶わぬからね。皆口を揃えて言う。峻厳たる扉だったと」
「あの、んー、そう、だったかな」
いや、ごく普通の築20年の日本の建売住宅のごく普通の引き戸、でしたけど。
「じゃあここ、冥界ってことっすか?」
俺の質問を聞いてか聞かずか、上機嫌に語るヘレネスが外套を翻しながら振り向いた。
「私の役目ではないが、困っているようだし、君にも道案内を差し上げよう」
「いや、俺は」
来た道を振り向くと、歩いたはずの道のりがぼやけてしまっている。
もうこれは、目が覚めるのを待つしかないかもな。
足場が悪い荒野で、ヘレネスは歩く速度を上げた。
このオッサン、あんなふざけたサンダルでよくこんなところ歩けるな。
かく言う俺は、なんでいつの間にか靴を履いているんだろう。
慎重に足元に視線を落としながら、必死についていく。
「君は、犬を探していると言ったな」
「はい、心当たりあります?」
答えた俺の声は、少しだけ息が上がっていた。
「願いは、口にし続けなさい」
「あの……」
「君の名前は?」
「あ、すみません。名乗って、なくて…」
息が上がって、肩を上下させる。気付けばヘレネスの足音が遠ざかっていた。あのオッサン、足速すぎ。
大きく息を吸って、声を張る。
「あの、ヘレネスさん、俺ら、どこに向かってるんすか?」
「……私は、プシューコポンポスだよ。キリオ」
あれ、俺、名前、言ったっけ?
「それ、苗字っすか?」
いまいち噛み合わない会話に、躓かないために足元に落としていた視線を上げると、そこにぽんぽんのオッサンの姿は見当たらなかった。
「なんなんだよ、プシューコポンポスって…」
ぼやいた声が、妙に遠くまで響いた。その瞬間、足元から乾いた土の感触が消えた。
「名は何という?」
またもや気配を感じないまま、いきなり声を掛けられてびくりと肩をすくめる。
「うわっ、え?」
周囲を見渡す。霧がはれたと思いきや、それと同時に鼓膜を水音が叩いた。かなりの水量。
一気に周囲の湿度が上がった気がした。
目の前に、黒い水辺が広がる。
「なにこれ」
海か、川なのか、湖なのか、向こう岸は濃い霧に覆われたモノクロの景色。
ここまで歩いてきた今の今まで、気付かなかった。
「聞いておるか?」
「あの、」
「名は何という?」
ヘレネスのオッサンより随分小柄で、同じ黒い外套を目深に被った人物がいつの間にか目の前にいた。
男か女か、年齢もよくわからない声の主が、分厚い台帳を指先で叩きながら続ける。
「名前。早く」
その苛ついたような指先が、俺の背後を指し示した。気付けば、俺の後ろに行列ができていた。
列の最後尾は、これまた霧に埋もれてしまうほどの行列。
どれもこれも、いつのまに。
「…犬塚 桐緒です」
「いぬつかきりお、ね。いぬつかきりお……」
こめかみを掻いた細い指が、台帳を捲りながら止まった。
「記載漏れか?」
「あの」
「まあ、よい。幸い空きが出たところだ」
小さな手がこちら差し出される。
「?」
「お代」
「なに?」
「代金だよ。かね。まさか持ってないのか」
返された手が、また矢印を作ったかと思うと、大きな水面に浮かぶ真っ黒な船を指し示した。
どうやら、運賃ということらしい。
言われて尻ポケットを探る。スマホも財布もカードケースも、なにもない。
「すいません。お金、持ってないです」
「小銭すら入れて貰えんかったか」
「何に?」
「棺桶だ。当たり前だろう。余程人望のない死に方を…」
なけなしの知識が、先ほどのヘレネスの言葉と繋がる。
冥界。川。舟。向こう岸に行くために渡し賃が必要のようだ。俺、まだ死んでないんだけど。しかも、なんか酷い言われようだったし、なんでこんな夢……。
「本当に硬貨の1枚もないのか、可哀想に」
そんなこと言われても。
俺は別に、先に進みたいわけじゃないし。
あのヘレネスのオッサンが勝手に連れてきただけだし。
別に目が覚めるまで、ここにいればいい話で。
ちらりと振り向いた後ろの列が気になった。俺がモタモタしてるから、みんな苛ついてるんじゃ。こういうのは苦手だ。なにかないか、身の回りをもう一度探す。
「あ、これとか」
目に入ったのは、首輪についた一枚のコイン。
「待て。これは何だ」
相手の細い指が、ピタリと止まった。
いや、何かは俺も知らないんだけど。
やっぱだめか。
「これしか、持ってなくて…」
細い手が、俺の腕を掴みコインを凝視する。
「そういうことなら、早く言え」
「へ?」
黒い外套のフードが外された。
そこからは、見るからに柔らかい金髪を三つ編みにした少女が、気の強そうな碧眼でこちらを睨みつけていた。
「私はカロン。渡守、カロンだ」
「案内する」
「あの」
行列をほっぽり出して、カロンが川岸へと歩み出す。
「お前たちが渡るのは、あっちだ」
「待って、俺、」
「待たん。お前も願いがあるのなら、迷うな。留まるな。進むことを選べ」
「願い、って……」
手の中で首輪のコインが、鈍く光った気がした。




