ポチがいなくなった日
社会人になって2年目の冬。
飼っていた犬が死んだ。
その犬は、俺が8歳の時、公園帰りに出会ったデカくて黒い野良犬だった。
誕生日とクリスマスの度に幾度も犬を飼いたいと親にお願いしていた俺は、突如目の前に現れた飼い主不明の犬にめちゃくちゃ興奮した。
まだ子供だった俺にとって、そいつはまるで狼みたいに大きく見えて、カッコよくて。好奇心が先走って恐怖なんてちっとも感じなかった。
「なぁ、おまえひとり?」
その俺の言葉と同時に周囲に複数の叫び声が響いた。
野犬だ。子供が襲われている。誰か助けて。
それが俺たちを指していると気付いた俺は大いに焦った。
やめてくれよ、そんな大きな声をだしたら、こいつがびっくりして逃げちゃうかもしれない。
逃げないで。
そう気持ちを込めて蜂蜜みたいな金色の眼をじっと見つめたら、駆け出そうと前脚へと体重を踏み込んでいた犬が、もう一度俺に向き直った。
「なぁ、一緒にこないか?」
俺の言葉に少し考えるかのように耳をぴくぴくと動かした犬は、ゆっくりと俺の横に並んだ。
——もしかして、君の犬?
遠巻きに見ていた多くの大人の中、駆け寄ってきていた大柄の男の人と、バットを持ったオジサンに尋ねられて、俺は自信満々にこくりと頷いたんだ。
——終電も近く、人もまばらな駅からの道を、雨に濡れるのも構わずに走った。
ほとんど使わなくなっていた実家の鍵を取り出す時間も惜しくて、深夜にかかわらずチャイムを連打する。玄関を開けた家族を横目に、靴を脱ぎ捨てて家の二階に駆け上がった。
子供の頃から使っていた俺の部屋。ここ2年、帰ってくることがほとんど無かった実家の二階で、俺の犬はクッションに横たわって死んでいた。
間に合わなかった。
ギリギリだったとか、まだ温かいのに、とかそんな段階の話じゃなくて。
出会った時には既に成犬だったデカくて黒い犬は、俺が帰り着くのを待たずに小さくなって死んでいた。
出会って15年。だから多分18歳くらいのジィさんなわけで。大型犬としては大往生だ。
もうそろそろ、いい加減、歳だから。
頭では分かってたのに。仕事が忙しいからって全然会っていなかったデカくて黒い犬は、いつの間にか、俺の記憶の中の姿とは程遠い、細くて黒い毛皮の塊になっていた。
肉球を包んで、がっしりしていたはずの脚を小さく動かす。冷たくて、硬かった。鼻を埋めても、記憶の中にある芳ばしい匂いはしなかった。
明日にはペットの火葬業者が来てくれるらしい。
寒い。
真冬の俺の部屋は、夜中にも関わらず窓を全て開け放っているせいもあって、肺を突き刺すような冷たい風が入り込んでいた。
犬の身体に身を寄せる。
冷たい。
身体を腐らせないために、可能な限り冷やしておけと言われたはずなのに。
さらにぴたりと身体を寄せる。
冬の寒い日にこうやってくっつくと、少し迷惑そうな顔をしたあと、ふんと鼻を鳴らしてそこに伏せてくれていたあったかい身体は、どこにもなかった。
今更だ。
仕事なんてどうでもよかったのに。もっと大切にするべきものがあったのに。飲み会に行かずに、休みの日に惰眠を貪らずに、時間を見つけて帰っておけば。なんて、今更だ。
「ポチ、ごめん」
ポチの首についた赤い革製の首輪をなぞる。
出会った時から付けていた首輪だ。取ろうとすると嫌がって。この首輪を頼りに元の飼い主を探したけれど、結局見つからなくて、俺は内心ガッツポーズしたんだよ。
思えば、静かで頑固で強情な犬だった。
犬種はわからない。
野良だったくせに、食べ物の好き嫌いが多くて、名前を呼んでも床に伏せたまま面倒くさそうな顔をして、こっちを見ようともしないくせに、扉の影から盗み見ると、ぱたりぱたりとゆっくり尻尾を振って床を叩いているような、そんな犬だった。
人間に懐く気配がなくて、でも、気づけば俺の足元にだけはいつの間にかいるような犬だった。
俺の相棒で、俺の家族で。なんで。なんで最期に近くにいてやらなかったんだろう。
大好きだって、宝物だって、自慢の犬だって、なんで伝えてやれなかったんだろう。
「ごめん」
伝えたい言葉はこれじゃないのに。口から出る言葉はそれだけだった。
寒さと身体の痛みに目を覚ます。
雪になりきれなかった水気の多いみぞれが雨が窓から降り注いで、頬の体温に溶けた。
「ポチが」
濡れてしまう、と咄嗟に顔を上げた視線の先には、もぬけの殻になったクッションがあった。
「……へ?」
雨樋を打つ雨の音が強まっていた。
ぽつりと置かれた赤い首輪が視界に入る。
ポチの長い毛に覆われて、シャンプーの時ですら外すのを許してくれなかったそれを持ち上げた。と、同時に、金具についていたタグのようなものが揺らめいた。
金色の、コイン?こんなの、ついてたっけ。
今まで首輪と首の間に挟まりつづけていたのだろうか。
「……んなことどうでもよくて」
ポチは、家族の誰かがリビングにでも連れて行ったのだろうか。にしても、なんで首輪だけ外して……。
「なぁ、誰かポチ、連れてった……?」
下の階に聞こえるように、かつ、真夜中であることを配慮した声を出しながら、自室の扉に手をかける。
耳障りな雨音が一瞬にして止んだ。
踏み出した足に、砂の感触が伝わる。
「……へ、な、……え!?」
飾り気のない実家の冷たい廊下に出たはずだった俺は、気づけば裸足のまま外に立っていた。
空は、夕日が沈みかけ紫と灰色が混じった色をしていた。遠くには黒い木々が並んでいて、足元に目を映すと、薄い霧が皮膚を撫でるように流れている。
草むらがあるのに、生き物の声は聞こえなくて。風だけがゆっくりと通り抜けていく。
「ここ、え、なに、どこ」
時間も天気も季節も、多分、国も違う。
これ、あれだ。まだ夢だ。
足の裏から伝わる感触も、草木の匂いも、意味わかんないくらいリアルだけど、夢だ。
とりあえず部屋に帰ろう、と振り向くと既に扉は消え去っていて。
じゃあまず起きろ、俺。
そうだ。ポチを探さなきゃ。
目を覚まして、目の前にポチがいればそれでいい。そうだ。俺は——
「ようこそ。どうされたか?」
急にかけられた声に弾かれるように顔をあげた。
そこには、黒い外套に翼のついたサンダルを履いたオッサンが、首を傾げてこちらを見ていた。
この人、いつの間に、どこから。いつも夢だったら気にしてもいないはずの現実的で細かいことが気になる。
「俺、」
「道に迷ったか?それとも何かお探し物か?」
探し物……。
「あの、俺、ポチを探してて」
外套の奥にあった青い眼が、少しだけ細められた。
「ポチっていうのは、俺の犬で、」
「そうか。それでこちらに来られたのか」
オッサンが指を指したのは、俺の左の手だった。
握られたポチの赤い首輪についたコインが、金色に鈍く夕日を反射して光っていた。




