29.衝動
凛生彩の意識がゆっくりと浮上し、薄目を開けてぼんやりと天井を見た。
『……ここは……そうか……ホテルじゃない……私の部屋だ……』
窓の方を見るとカーテンの隙間から光が差し込んでいた。
「光が綺麗だなぁ……今のこの瞬間を描きたい……」
凛生彩の“描きたい”スイッチが入った瞬間、凛生彩は勢いよく起き上がりリビングに急ぎ行き、昨日トランクルームから引き上げてきた荷物を漁り、スケッチブックと色鉛筆を取り出した。そのまま乱暴にソファに腰掛けると、一心不乱に記憶を追った。
「消えないで……」あの瞬間に感じた感情も画で表現したい……感動を乗せるように記憶が逃げないうちに描かないと……。
……スーッスーッ…さささっ…シャッ·シャッ·シャツ…さっさっ…スーッ·……
暫くの間、静かに熱を帯びた音だけが室内に広がっていた。
「……ふぅ~。描けた……ここまで下絵を残せれば大丈夫。本画はあとでゆっくり描こう……ふふっ」
大きくため息を吐き、無事に全てを画角に収めた凛生彩は冷静さを取り戻した。
スケッチブックと色鉛筆をテーブルに置いて顔を上げると、目の前には落ち着きのない様子の時雨と福豆が立っていた。
「……おはよぅ?」
描いている姿をずっと見られていたかもしれないという恥ずかしさを隠すように、凛生彩は時雨と福豆に挨拶?をしてみた。
「・・・凛生彩様、おはようございます」
時雨は平静を装って挨拶を返した。
「・・・おっ おはようございます・・・凛生彩様・・・」
福豆は凛生彩と視線を合わせずに挨拶を返した。
「……ん? 福豆はどうしたの? 具合でも悪いのかな?……」
福豆はもじもじしながら「あの〜」と言葉を続けられずにいた。
時雨が引き継ぐように、「あの〜凛生彩様・・・」やはり言葉が続かなかった。
ニ鬼の様子をみて『何かに遠慮して言葉を続けられないのだろう』と思った凛生彩は、
「これから一緒に過ごすのだから、遠慮しないで何でも言ってね!」
敢えて元気に振る舞ってみた。
時雨は意を決したように視線を真っ直ぐに凛生彩の瞳に合わせて、
「凛生彩様は阿修羅様の化身でいらっしゃいますか?・・・ 主様とのご様子から、もしや阿修羅様ご自身ですか?」
何とか言い切った時雨は、福豆の手をギュッと握った。
緊張しているニ鬼とは違う反応の凛生彩がそこにはいた。
「………………?」
何も言わない凛生彩の様相に、いよいよ怒りを買ってしまったのだろうと思ったニ鬼は、
「申し訳ありません」
「・・・ごめんなさい」
深々と頭を下げたままの姿勢で微動だにしなかった。
「……ん?……ごめん。よく理解できなかった……怒ってないから頭を上げて」
凛生彩は予想の遥か斜め上の時雨の問に、脳内処理が追いつかないでいただけだった。
ニ鬼は恐る恐る顔を上げ、凛生彩の様子をうかがうように不安気な瞳で凛生彩を見た。
「質問のことだけど、阿修羅様って、あの阿修羅様かな?」
大きく頷くニ鬼をみて、凛生彩はようやく合点がいった。
「どうして阿修羅様の名が出たかは……うん……何となくわかった。でも私は阿修羅様自身ではないし化身でもないからね。ただのヒト属の凛生彩だよ!……怖くないよ〜!」
凛生彩は安心させるように明るく言ったつもりが、ニ鬼の瞳が潤んでしまった。慌てた凛生彩は、
「ごめんね。泣かないでね……」
ニ鬼にそっと近づき抱きしめた。抱きしめられてビクッとしたニ鬼だったが、徐々に身体が弛緩したのが腕に感じる熱で凛生彩に伝わってきた。
時雨と福豆をソファに座らせて、凛生彩はその前に屈んでニ鬼に目線を合わせた。
「すこし落ち着いたかな?」
頷くニ鬼の頭を優しく撫でながら、
「私ね、描きたいものに出合うと衝動で動いてしまう癖があってね……『忘れないうちに描かないと』って思うと、周りの人が引くくらい凄い形相になるみたいで、よく注意されていたんだ……ごめんね、驚かせて」
凛生彩の説明を聞いて、ホッとするように時雨と福豆に笑顔が戻った。
「ホッとしたらお腹が空いてきたな……」
スケッチブックと色鉛筆を片付けながら、ポソッと凛生彩が呟いた。
「あっ、忘れてました・・・桜さんから『朝食の用意をしますので、起床したら昨夜の食堂室にお越しください』と言付けされていました」
時雨は慌てて礼を執った。
「気にしないで……今朝はいろいろ私がやらかしたから……。では、気を取り直して、食堂室に案内をよろしくね!」
時雨と福豆の案内で食堂室についた凛生彩に、桜が声を掛けた。
「凛生彩さん、おはようございます。ゆっくりお休みできましたか?・・・ふふふ」
「はい、ぐっすり眠れました。久々に眠った感じがします」
家を出た後、合わないベッドや慣れない環境で眠りが浅い日が続いていたので、ここまで落ちるように深く眠ったのは久々だった。質のいい睡眠を取れたことで思考がクリアになり、今朝のやらかしがあったのは内緒の話。
凛生彩が席につくのと同時に、琴がトレーを持ちキッチンから出てきた。
「おはようございます。凛生彩さん。よく眠れたようですね。顔色がとてもいいですよ・・・ふふふ」
テーブルにハムとチーズのホットサンドとコーヒーを並べ笑顔で会釈した。
「……えぇ、よく眠れました。良い香り……美味しそう……」
今朝のやらかしがバレてないのか、そっと大人の対応をしてくれているのか食堂室には穏やかな空気が流れていた。『琴さんと桜さんは時折・・・ふふふ。って言うんだよね……あれは何の・・・ふふふ。なんだろう? 』引っかかりを覚えながらも凛生彩は目の前の食事を優先にした。
「いただきます……」両掌を合わせ感謝の念を表した。
ホットサンドをサクッと頬張ると熱々のチーズが口の中で広がった。
「熱ッ!……おいひ〜……コーヒーが良い香り〜……ゴクン…」凛生彩は五感をフル動員して幸せを味わった。
「ごちそうさまでした。はぁ幸せ……」合掌しながら幸せの余韻に浸っていた凛生彩に琴が話しかけた。
「お粗末さまでした。食後直ぐで申し訳ないのですが、この後お時間があれば主様が執務室でお待ちです・・・」
「わかりました。時雨、福豆。執務室に連れて行って!」
「はい!」
「あぃ!!」
凛生彩は、相手に先ずは事実だけを伝えて、それを受けて何を選ぶのか、どのようにするかの決断を相手に委ねる……このやり取りに自分の存在を尊重されている感じがして嬉しかった。




