第四章:囲炉裏の湯気、誠の団欒
道場に漂っていた緊張感のある冷気は、日が落ちると共に、どこか甘く香ばしい匂いへと溶けていった。
稽古着から着替え、痛む体を引きずるようにして奥の間へ向かうと、そこにはパチパチと爆ぜる薪の音と、もうもうと立ち昇る白い湯気、そして男たちの賑やかな笑い声が溢れていた。
「おっ、惣次郎! 傷は痛むか? ほら、ここへ座れ」
近藤さんが、大きな手で自分の隣を叩く。
部屋の中央にある古い囲炉裏には、大きな鉄鍋がかけられ、大根や牛蒡の滋味深い香りが部屋中に広がっていた。
新宿での僕――レイの食事は、いつも無機質なものだった。
深夜、客の飲み残した高価なだけで味のしないオードブルを摘むか、あるいは明け方のコンビニで買った冷たいパスタを、スマホの画面を見つめながら胃に流し込む。
誰かと食卓を囲むことなど、もう何年も、いや、物心ついた時から一度もなかった。
「……ありがとうございます、近藤さん」
促されるまま、僕は近藤さんの隣、一番温かい特等席に座らされた。
家族という名の温もり
「今日は左之助(原田左之助)が山で仕留めた猪の肉が入っているんだ。精をつけろよ」
そう言って、山南敬助さんが優しく微笑みながら、僕の前に山盛りの飯と、具だくさんの汁が注がれた椀を置いた。
「おいおい、惣次郎ばかりにいい肉を入れるなよ、山南さん! 俺にも、その脂身をよこせ!」
永倉新八が豪快に笑いながら箸を伸ばし、それを原田左之助が「修行が足りん!」と叩き落とす。
そんな騒がしいやり取りを、土方さんは少し離れた場所で、酒をなめながら黙って眺めている。
稽古の時のあの「鬼」のような冷徹さは影を潜め、その横顔には、どこか穏やかな安らぎが浮かんでいた。
(……温かい。なんだこれ、……本当に温かいな)
僕は、差し出された汁椀を両手で包み込んだ。
熱が、かじかんだ指先からじわりと全身に広がっていく。
新宿のネオンの下では、どれほど札束を積んでも、どれほどシャンパンの栓を抜いても、決して手に入らなかった「温度」がここにはあった。
「どうした、惣次郎。箸が進まないのか? ……ああっ、もしやトシの稽古が厳しすぎて、顎が動かんのか!」
近藤さんが豪快に笑い、僕の背中をバシバシと叩く。
その衝撃で、鎖骨の傷が少し疼いた。けれど、その痛みすら、今の僕には「自分がここに生きている」という証明のように感じられて、不思議と心地よかった。
涙と味噌汁の味
僕は一口、汁を啜った。
出汁の旨味と、野菜の甘み。そして、何より心に染みたのは、この鍋を囲む全員が「お前がそこにいて当然だ」という眼差しを向けてくれているという事実だった。
「……おいしい。すごく、おいしいです」
気づけば、声が震えていた。
新宿の「レイ」として生きていた時、僕はいつだって「偽物」だった。
客を喜ばせるための言葉を並べ、先輩に媚びを売り、自分が誰なのかも分からなくなるまで酒を飲み干す。
本当の自分なんて、誰も見ていなかった。
けれど、ここでは。
この九歳の少年の体の中にいる僕は、ただの「惣次郎」として、かけがえのない家族として迎え入れられている。
「……う、あ……」
不意に、目頭が熱くなった。
零れ落ちそうになる涙を隠すように、僕は必死に飯を口に運んだ。
炊きたての米の香りが、これまでの孤独を優しく解かしていく。
虐待され、放置され、誰にも愛されないことが当たり前だったレイにとって、この質素な食事は、これまでの人生で口にしたどんな高級料理よりも「上質」なものだった。
「ははは! 惣次郎、そんなに急がなくても肉は逃げんぞ!」
近藤さんの笑い声が、天井の梁に響く。
土方さんが、ふっと口角を上げてこちらを見たのが分かった。
繋がれた魂
食後、囲炉裏の火が小さくなるまで、彼らは夢を語り合った。
いずれ京へ上り、天下のために、この「誠」の旗を掲げるのだという、青臭くも熱い、命懸けの夢。
現代の僕には、夢なんてなかった。
明日の家賃、来月の売上、誰を騙して金を引っ張るか。そんな塵のような現実しか見ていなかった。
けれど、この囲炉裏の光に照らされた彼らの横顔を見ていると、僕の胸の奥にも、小さな、けれど消えない火が灯り始めていた。
(……もし、これが本当に夢だとしても)
僕は、自分の小さな手を見つめた。
近藤さんの温かさ、土方さんの厳しさ、そして仲間たちの笑い声。
それらが僕の中に蓄積され、欠け落ちていた魂の破片を一つずつ埋めていく。
「……惣次郎、もう眠いか?」
近藤さんが、僕を布団まで運んでくれる。
その背中は、新宿のどんなビルよりも高く、頑丈に見えた。
「おやすみなさい、近藤さん。……兄上」
僕が小さく呟くと、近藤さんの足が少しだけ止まった。
そして、さらに優しく僕を抱き直し、静かに頷いた。
「ああ。おやすみ、惣次郎」
新宿の暗い夜とは違う、月の光が優しく差し込む試衛館の夜。
僕は初めて、明日が来ることを「怖い」と思わずに、深い眠りへと落ちていった。




