第三章:陽光の檻、大口の怪物
床に這いつくばる僕の視界は、涙と鼻水、そして飛び散った汗でぐちゃぐちゃに歪んでいた。
鎖骨に走る激痛は、呼吸をするたびに鋭い針となって肺を突き刺す。
(痛い、痛い、痛い……帰りたい。新宿の、あの薄暗くて汚いアパートでいい。ゲロの匂いの中でいいから、一人にしてくれ)
現代の僕、レイとしての自意識が、子供の体の中で情けなく叫び続けていた。
新宿の「レイ」として笑っていた時は、殴られてもこれほど心は折れなかった。
なぜなら、あの街の暴力には「理由」があったからだ。売上の不足、態度の悪さ、あるいは単なる虫の居所。理由は理不尽でも、そこには逃げ場としての「諦め」があった。
だが、この土方歳三という男の暴力には、純粋な「期待」しかなかった。
逃げ場を許さない、正論という名の暴力。
「……もう、終わりか。それまでだな、惣次郎」
土方の冷たい声が、頭上から降りかかる。
その時だった。
「――トシ、それくらいにしておけ。惣次郎がかわいそうだ」
重く、地響きのような、けれど真綿のように温かい声が道場に響いた。
土方の放っていた凍てつくような殺気が、一瞬で霧散していく。
目の前に、巨大な影が落ちた。
顔を上げると、そこにいたのは岩のような体躯を持つ大男だった。
日に焼けた浅黒い肌、そして何よりも目を引くのは、すべてを飲み込んでしまいそうなほど大きな、拳が入ると噂されるあの「口」だ。
近藤勇
試衛館の主であり、後に僕の運命を縛り付ける、太陽の怪物。
「……近藤さん。こいつは少し、甘やかされすぎている」
土方が木刀を引く。近藤はそれを柔らかな笑みで受け流すと、泥と涙にまみれた僕の前に膝をついた。
「惣次郎、痛かったな。辛かったな」
近藤の大きな手が、僕の頭に触れた。
その瞬間、僕の体はビクリと拒絶反応を起こした。
> 現代の僕、レイを育てたのは、愛などという言葉とは無縁の「暴力」だった。
> 父親の拳はいつも冷たく、不意に飛んできた。殴られる前に体が震え、呼吸を止める。それが僕の生きる術だった。大人という生き物は、自分を傷つけるか、あるいは無関心であるかのどちらかだった。
だが、近藤の手は違った。
驚くほど熱く、分厚い。
その掌からは、僕という存在を芯から肯定するような、圧倒的な「慈愛」が流れ込んできた。
「……あ、あ……」
喉の奥から、声にならない嗚咽が漏れた。
生まれて初めて触れた、本物の「愛」という名の熱。
それは、凍えきっていた僕の心の深層を、容赦なく抉り取っていく。
近藤は僕をひょいと抱き上げた。
まるで、壊れやすい宝物を扱うような手つきで。
「惣次郎、お前は我らの宝だ。試衛館の、そして私の、かけがえのない弟だ」
近藤の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめる。
その眼差しはどこまでも清らかで、一点の疑いもなかった。
彼は信じているのだ。
この九歳の少年が、いずれ天を駆ける天才剣士になり、自分と共に修羅の道を歩んでくれることを。
その「純粋な愛」に触れた瞬間、僕は本能的な恐怖に震えた。
新宿の暴力なら、耐えられた。憎めば済むからだ。
だが、この男の愛は、僕に「期待に応えなければならない」という、死よりも重い義務を課してくる。
もし、この男を失望させたら。この太陽のような笑顔を曇らせてしまったら。
それは、僕にとって死ぬことよりも恐ろしい「拒絶」になる。
「さあ、笑え。お前は笑っている顔が一番いい」
近藤は僕の頬を、大きな親指で拭った。
その優しさが、僕の首を静かに、確実に締め上げていく。
土方の「氷」は肉体を傷つけるが、近藤の「陽光」は魂を檻に閉じ込める。
道場の奥では、山南敬助が優しく微笑み、永倉新八や原田左之助が豪快に笑い合っている。
そこにあるのは、現代の新宿では決して手に入らない、命を担保にした「家族」の絆だった。
一度その温もりを知ってしまえば、もうゲロの匂いのする冷たいアパートには戻れない。
僕は、近藤の広い胸に顔を埋めた。
痛めた肩が、彼の熱で疼く。
新宿の「レイ」という偽物は消え、僕は沖田惣次郎として、この太陽のような怪物の影の中に、一歩ずつ飲み込まれていった。
「……はい、近藤さん」
僕の口から出たのは、子供らしい、けれどどこか諦めに満ちた声だった。
愛されている。
その事実が、この狂った幕末という時代の、何よりも残酷な「法度」となって、僕の胸に深く刻み込まれた。




