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ゲロと誠 〜新宿のダメホスト、夢で沖田総司を極めて歌舞伎町の王になる〜  作者: 桐生宇優


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第二章:試衛館の地獄、白刃の重み

「……う、あ……」


強烈な胃酸の酸味。鼻を突くアンモニア臭。


新宿の汚部屋で、吐瀉物にまみれて意識を失ったはずのレイは、激しい吐き気と共に目を覚ました。

けれど、何かがおかしい。

(……臭くない。ゲロの匂いが、消えた……?)


代わりに鼻腔を満たしたのは、古い木と汗、そして乾いた土が混じり合ったような、重苦しくも清烈な匂いだった。


目を開ける。


そこにあったのは、剥がれかけた壁紙の天井ではなく、黒ずんだ太い梁が渡された、高い、高い天井だった。


「……いつまで寝惚けている。立て、惣次郎」


剃刀で喉元をなぞられるような、冷たい声が降ってきた。


見上げると、そこには一人の男が立っていた。


年の頃は二十代半ば。総髪を後ろで束ね、漆黒の紋付を着た男。その瞳は、冬の夜空のように澄み渡り、同時に獲物を屠る瞬間の獣のような、無機質な光を宿している。


(……誰? この人、誰だよ……!?)


レイは慌てて身を起こそうとした。その時、自分の体に走った違和感に息を呑んだ。


(……軽い。腕が、細すぎる。……え、なんで僕、子供になってるんだ!?)


汚れたホストスーツではなく、小さな稽古着を着た少年。九歳の沖田惣次郎の肉体に、現代のダメホスト・レイの意識が閉じ込められていた。


「……なにを呆けている。構えろと言っているんだ」


男――土方歳三が、一振りの木刀をレイの足元へ投げ出した。


床板にぶつかる、ゴツン、という重い音。


「……近藤さんが甘やかすから、お前は付け上がる。……私が叩き直してやる。拾え」


レイは震える手で木刀を拾い上げた。

(……重い……なんだこれ。鉄の棒かよ……)


現代の不摂生な体には、一本の木刀を支えることさえ苦痛だった。


だが、そんなレイの戸惑いを、目の前の男は一切容赦しなかった。


「……行くぞ」


土方が木刀を中段に構えた。


その瞬間。


道場の空気が、物理的に「殺意」へと変質した。

(……ひっ……!!)


レイの全身の毛穴が、恐怖で一瞬にして収縮した。

新宿で大牙にいびられていた時とは、次元が違う。


大牙の暴力は「支配」のためのものだった。だが、この男が放っているのは、目の前の生命を「効率よく破壊する」ための、純粋な闘争の気配だ。


本当に、殺される。

逃げなきゃ。そう思った瞬間だった。


閃光。


土方が一歩踏み出し、上段から木刀を振り下ろした。


空気を引き裂く、不吉な風切り音。


「……うわあああぁぁ!!」


レイは悲鳴を上げ、無様に床を転がった。

直後、彼がいた場所の床板が、凄まじい衝撃音と共に鳴った。もし避けていなければ、頭蓋が粉砕されていただろう。


「……逃げるなと言ったはずだ」


土方の声には、怒りさえない。ただ淡々と、害虫を駆除するかのような冷徹さがあった。


立ち上がろうとするレイの肩に、土方の木刀が突き刺さるように振り下ろされた。


ガシャッ!!


「ぎ、あああああぁぁぁっ!!」


鋭い痛みが、レイの脳髄を突き抜けた。


木刀が鎖骨に直撃した。骨が軋む嫌な音が聞こえ、目の前が真っ白になる。


現代のレイが経験したことのない、本物の「暴力」。


肉が潰れ、骨が砕ける。そんな恐怖が、暴力的な質量を持って襲いかかる。


「……立て。まだ一本も入っていないぞ」


「い、嫌だ……! 助けて! やめてくれよ!!」


レイは涙と鼻水にまみれながら、必死に後退りした。


こんなの稽古じゃない。ただの虐待だ。殺戮だ。


新宿の薄汚れたアパートに戻りたい。ゲロの匂いの方が、この死の匂いより数倍マシだ。


だが、土方は止まらない。


這いつくばる少年の腹を、容赦なく木刀の先端で突き上げた。


「……が、はっ……!!」


肺の中の空気が全て弾け飛んだ。

レイは脂汗を流しながら、畳の上に崩れ落ちた。

視界が歪み、土方の姿が巨大な死神のように見える。


「……惣次郎。……お前のその目は何だ。……死ぬのが怖いか」


土方は、倒れ伏すレイの喉元に、木刀の先を静かに押し当てた。


冷たい木の感触。けれど、それは確かに、抜き身の刃物と同じ重圧を持ってレイの喉を潰そうとしている。


「……戦いたくないなら、ここで死ね。……『誠』を掲げ、時代を背負う覚悟がない者に、この道場の床を踏む資格はない」


土方の瞳に宿る、本物の「鬼」の片鱗。


それは、九歳の子供に向けるものではなかった。

規律のため、目的のためならば、愛する弟分さえも切り捨てかねない――そんな絶対的な冷酷さが、そこにはあった。


(……助けて……誰か……)


レイは震えることしかできなかった。


野心も、逆転の意志も、何もない。


ただ、目の前のこの「鬼」が恐ろしくて、この狂った時代から一刻も早く逃げ出したかった。


道場の外からは、狂ったように鳴くセミの声だけが聞こえてくる。


レイ(惣次郎)の流した涙が、黒光りする床板に小さなシミを作っていた。

この「夢」が、終わりのない地獄の始まりであることを、レイはこの時まだ知らなかった。

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