第二十九章:亡霊のファイル、炎上の不夜城
「……仕込みはすべて終わったよ、ハル。警察がガサ入れの赤色灯を灯す前に、あの『黒い革ファイル』をこの世から完全に消し去る」
午前一時。
アポロンの営業終了直後、最上階の執務室から王賀社長が階下のフロアへ降りたわずかな隙を突き、僕は再び天井の点検口から執務室へと音もなく舞い降りていた。
手元にあるのは、麗華の精神的ハッキングによって暴かれた隠し金庫の解除コード。そして、ハルが電子的に無効化した3分間のセキュリティログ。
カチリ、と静かな音を立てて開いた重厚な偽装壁の奥から、僕はあの王賀の命の源泉――「黒い革ファイル」の現物を掴み取った。
すでに中身のデータ(写メ)は僕たちの手の中に完全な形で複製されている。
ならば、この物理的な現物は、王賀を最も残酷な形で絶望させるための「最高の弾金」としてここで葬り去るべきだ。
僕は懐から、ライターを取り出した。
シュッと小さな火花が散り、オレンジ色の炎が黒い革の表紙を、そして中に綴じられた数々の違法献金や買収工作の「生々しい紙片」を舐めるように包み込んでいく。
「……燃えろ。過去の遺物とともに」
執務室の専用シュレッダー兼焼却炉のダストボックスのなかで、ファイルは音もなく、完全に灰へと姿を変えていく。
これで、この世に「王賀の黒い革ファイル」は物理的に存在しない。
だが、王賀自身は、それが今も金庫の奥に眠っていると信じ込んでいる。そして、僕たちのスマホの中には、いつでも彼を社会的に圧殺できる「電子の亡霊」としてデータが生き続けている。
存在しないファイルに守られていると錯覚したまま、彼は破滅の舞台へと引きずり出されるのだ。
【赤色灯の強襲、瓦解する絶対防壁】
僕が灰を確認して執務室を去った、わずか十分後。
―ウゥゥゥゥンッ!!!
歌舞伎町の夜の静寂を切り裂き、アポロンの正面エントランスに突如として十数台の警察車両が急停車した。赤色灯の禍々しい光が、ガラス張りのビルを赤く染め上げる。
「警察だ! 臨検に入る! 全員動くな!」
神崎が裏から完璧に手を回した、容赦のない大規模なガサ入れ(臨検)。
フロアにドカドカと土足で踏み込んできた捜査員たちの姿を見て、大牙の残党や残っていたホストたちは悲鳴を上げて色めき立った。
だが、ハルだけは事前にすべてを察知していたため、完璧に冷静な所作で顧客たちを裏口へと避難させ、現場の混乱を最小限に抑えていた。
「おい! 何の真似だこれは! 俺の店だぞ!」
階上から慌てて降りてきた王賀社長が、怒髪天を突く勢いで捜査幹部に怒声を浴びせる。
「俺の後ろに誰がいるか分かってんのか!? 神崎先生に一本電話を入れれば、お前らの首なんて一瞬で飛ぶんだよ!」
王賀は、未だに自分が神崎を「脅迫して操っている」という全能感に浸っていた。
しかし、捜査幹部は冷淡な目で王賀を見下ろし、一枚の令状を突きつけた。
「神崎先生から、お前のところの違法な資金洗浄と半グレへの融資疑惑について、徹底的に洗えと直々に指示が出ているんだよ、王賀。往生際が悪すぎるぞ」
「……な、に……っ!?」
王賀の顔が、生まれて初めて恐怖で歪んだ。
自分の最大の盾であったはずの国家権力(神崎)が、なぜ自分を切り捨てにきたのか、彼の思慮深い脳細胞では全く理解が追いつかない。
「くそっ……! 待て、話せば分かる! 証拠なら、上の執務室に……!」
王賀は狂ったように、最上階の執務室へと駆け上がった。
(神崎が裏切ったとしても、あの金庫の『黒い革ファイル』さえあれば、他の警察幹部や政治家を脅して、この状況をいくらでも引っくり返せる……! あれさえあれば、俺は無敵だ!)
汗をまき散らしながら金庫室へ飛び込み、 震える指で隠し壁の暗証番号を叩き込む王賀。
背後から、僕とハル、そして麗華が、影のように静かに彼の姿を見つめていた。
【直接対峙、存在しない防壁】
ガシャリ、と音を立てて開いた偽装壁の奥。
そこにあったのは、王賀が命よりも大切にしていた黒いファイルではなく……
ただの、冷たい空洞と、真っ白な灰の残骸だけだった。
「……な、無い……? なぜだ……! どこへ行った!? 俺のファイルが……俺の命が、無い、無い、無いッ!!!」
王賀は床に膝をつき、 狂ったように隠し部屋の壁を掻きむしった。爪が割れ、血が滴り落ちるのも気づかないほど、 彼の精神は完全に崩壊しかけていた。
「王賀社長。……そんなものは、最初から存在しないんですよ」
暗闇のなかから、僕が静かに足音を響かせて歩み出た。
王賀が血走った目で振り返る。その視線の先で、麗華が僕の腕にそっと寄り添い、ハルが冷徹な笑みを浮かべてタブレットを構えていた。
「レイ……麗華……お前たち、まさか……!」
「貴方が信じていた防壁は、すでに僕の手で灰にしました」
僕はスマホの画面を王賀の目の前に突きつけた。そこには、彼が必死に探していた裏帳簿のデータが、寸分狂わぬ鮮明さで表示されている。
「現物は消えました。ですが、この電子のデータは、僕の指先一つでいつでも世間に公表できる。……王賀社長。貴方は神崎先生を失い、武器を失い、そして今、このアポロンのすべての支配権を失ったんだ」
「う、あああああッ!!」
王賀は獣のような悲鳴を上げ、僕に掴みかかろうとした。
しかし、その肉体が僕に触れるよりも早く、ハルが鋭いステップで間に入り、王賀の腕を完璧な新選組の捕縛術で捻り上げた。
「動かないでください、王賀さん。もう、あなたの時代は終わったんです」
ハルの声には、かつての弱者の面影など微塵もない。組織を支える本物の「副長」の冷徹さがそこにあった。
「麗華……! 俺を裏切ったのか! 誰のおかげでこの街で生きてこられたと思っている!」
床に押し付けられた王賀が麗華を睨みつけるが、麗華は冷たく彼を見下ろし、フッと鼻で笑った。
「私はね、王賀。あんたみたいな小物の道具でいるのには飽きたのよ。……私は、このレイ君という『本物の主』にすべてを捧げると決めたわ。あんたは、自分が作った泥の城の中で、惨めに溺れていけばいい」
外からは、警察のサイレンの音が一段と大きく響き渡ってくる。
現場をハルに去勢され、政治力をレイに奪われ、最後の命綱であるファイルを灰にされた王賀は、もはやただの「牙を抜かれた老いた虎」に過ぎなかった。
「……御用改めである。王賀社長、大人しくお縄に就きなよ」
僕はかつての沖田総司のように、優しく、しかし絶対的な死を告げるような笑顔で、崩壊した前支配者を見下ろした。
アポロンを包む激しい嵐のなか、古い時代の支配者が連行されていく。
不夜城・新宿の頂点に、いま、新たなる狼の旗――「新選組」が、鮮烈に翻ろうとしていた。




