第二十一章:闇の評定、飼い犬と支配者の算盤
「アポロン」の最奥、防音壁に囲まれたVIPルームのさらに奥にある重厚なマホガニーの扉。
そこは、フロアの喧騒が一切届かない、不気味なほどに静まり返った経営陣の巣窟――「幹部会」の部屋だった。
大牙のエースを略奪し、一晩で数百万円の売上を叩き出した僕の行為は、この街の絶対的なタブーだ。
だが、扉の前に立つ僕の心は、凪いだ水面のように静かだった。
かつて、屯所の奥座敷で土方さんや山南さんが並び、冷徹に「法度」を言い渡したあの『闇の評定』に比べれば、現代の経営者たちが放つ威圧感など、児戯に等しい。
「……失礼します」
静かに扉を開ける。
室内に満ちていたのは、高級な葉巻の煙と、冷徹な「計算」の気配だった。
【圧倒的な頂点、冷血な社長】
部屋の最奥、革張りのソファーに深く腰掛けていたのは、このグループの絶対的な支配者であり、社長の王賀だった。
大柄な体躯。高価なオーダースーツの奥からでも分かる、研ぎ澄まされた肉体の質量。
そして何より、その瞳には、かつて僕が京の都で出会った狂気の怪物・芹沢鴨をさらに巨大にし、冷酷な知性でコーティングしたような、圧倒的な「強者」の光が宿っていた。
「……レイ。自分が何をしたか、分かっているな?」
口を開いたのは、王賀の傍らに立つマネージャーだった。
「大牙の客を横取りしてタワーを潰した。店内の規律を乱す行為は、罰金と降格、最悪の場合はクビだ。落とし前をどうつける?」
糾弾の言葉が室内に響く。普通のホストなら、この時点で蛇に睨まれた蛙のように震え上がるだろう。
だが、僕はただ静かに王賀の瞳を見つめ返した。その「人斬り」の気配を完全に隠した、底知れない沈黙。
王賀は、面白そうに目を細め、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「……もういい、下がれ」
王賀の一言で、マネージャーはピタリと口を閉じた。部屋に、再び重苦しい静寂が戻る。
「規律、法度、そんなものは持たざる者を縛るための道具だ。……レイ、お前、一晩でいくら上げた?」
「四百万です」
僕は淡々と答えた。
「大牙の昨日の見込み売上は二百万だった。つまり、お前は店に倍の利益をもたらしたわけだ」
王賀の唇が、三日月のように歪んだ。
「俺たちが欲しいのは、綺麗な規律じゃない。圧倒的な『利益』だ。大牙は用済みだ。レイ、お前を次のナンバーワン候補として、店の総力を挙げてバックアップしてやる。……お前は、俺のためにどれだけの金を運んでこられる?」
糾弾から、一転して「利用」への誘い。
王賀にとって、ホストも客も、すべては自分の財布を膨らませるための「家畜」に過ぎないのだ。将来的には、この男を叩き潰さなければ、僕がこの街のルールになることはできない。
(……いいだろう。使われてあげるよ、今はね)
僕は心の中で、土方さんのような冷徹な笑みを浮かべた。
この男の持つ資本と影響力を貪り尽くし、新選組の力を蓄える。互いが互いを喰らうための、静かな「利用の契約」が、この暗闇の中で結ばれた。
「御期待に沿えるよう、僕の『刃』を研いでおきます」
僕は深く一礼し、静かに部屋を後にした。
【影に潜む雛鳥、憧憬の眼差し】
幹部会の部屋を出て、薄暗いバックヤードの廊下を歩いていると、曲がり角の影に、一人の少年が立ち尽くしているのが見えた。
名はハル。
先月入店したばかりの、まだ酒の飲み方も、女の扱い方も知らない新人ホストだ。
怯えたような、けれど何かを必死に求めているようなその瞳を見た瞬間、僕の胸の奥が微かに疼いた。
(……藤堂平助。いや、試衛館にやってきた頃の、僕自身か)
ハルは僕の姿を見ると、弾かれたように駆け寄り、床に頭がつくほどの勢いで頭を下げた。
「レ、レイさん……! あの、大牙さんの席でのこと、僕、見てました……!」
彼の声は震えていた。けれど、そこにあるのは恐怖ではない。
圧倒的な理不尽に踏みにじられていたレイが、一瞬にしてその場を支配し、捕食者を逆に屠ってみせたあの「凄絶な姿」への、狂おしいほどの憧憬だった。
「僕、ずっと悔しかったんです。大牙さんたちに、ゴミみたいに扱われて、無理やりお酒飲まされて、毎日ゲロ吐いて……。でも、レイさんは違った。本物の、本物のカッコよさって、ああいうことなんだって……!」
ハルは見上げた瞳に、涙を浮かべていた。
純粋で、まだこの街の闇に染まりきっていない、真っ白な魂。
僕は、そっとハルの肩に手を置いた。
かつて近藤さんが、僕の頭を大きな手で撫でてくれた時のように。山南さんが、僕に優しい言葉をかけてくれた時のように。
お光さんへの純愛を知る僕の心が、この少年を「守るべき家族」として認識していた。
「ハル。……この街はね、油断すれば一瞬で魂を毟り取られる戦場だよ」
「……はい」
「僕の後ろについておいで。……僕が、この街の本当の『歩き方(法度)』を教えてあげるから」
僕の静かな言葉に、ハルは何度も、何度も深く頷いた。
社長・王賀という巨大な壁。そして、僕を兄のように慕うハルという光。
新宿の夜のシステムを利用し、支配するための僕の「新選組」が、この静かな廊下で、産声を上げようとしていた。
「さあ、行こうか。……僕たちの、戦場へ」
僕はハルを従え、再び眩いネオンのフロアへと歩みを進めた。
天才剣士の魂を宿したホストの、静かなる進撃が、ここから加速していく。




