第二十章:色恋の法度、魂の略奪
大牙が恐怖で硬直しているその刹那、僕は大牙の隣に座る一人の女性に視線を移した。
名を「美咲」。大牙に毎月数百万円を貢ぎ、彼をナンバーワンの座に押し上げている、いわゆる「エース」と呼ばれる太客だ。
彼女の瞳は、大牙の暴挙を面白がっているようでいて、その奥底には、ひび割れた硝子細工のような深い「孤独」と「諦め」が沈殿していた。
(……ああ、同じだ)
島原の揚屋で出会った、あの白粉の裏に隠れた遊女の瞳。自分を殺して、金と偽りの情愛の中でしか生きられない女性の、底知れない飢え。
新宿の「レイ」としての記憶が、彼女の懐事情や貢ぐ心理を「金」として計算する一方で、僕の内の「沖田総司」の魂は、彼女の乾いた魂の悲鳴を鋭敏に拾い上げていた。
「美咲さん」
僕は大牙の襟元から静かに手を離すと、大理石の床に膝をつき、彼女の前に跪いた。
ウォッカで濡れた僕の黒いジャケットから、微かに夜風の、そして千駄ヶ谷の夕顔を思わせるような、切なくも冷たい香りが立ち昇る。
【金と支配、そしてお光の影】
「……何、レイ君。大牙を怒らせたら、この店にいられなくなっちゃうよ?」
美咲は強がってみせるが、その指先は微かに震えていた。
僕は無言で、彼女の冷え切った指先を、僕の両手でそっと包み込んだ。
―ビクッ。
彼女の身体が跳ねる。
かつて診療所でお光さんが僕の手を包み込んでくれた、あの嘘偽りのない命の温もり。その純愛の記憶が、僕の手を通じて、美咲の歪んだ心の防壁を容赦なく溶かしていく。
「大牙先輩は、貴方を『金』としか見ていない。……違いますか?」
「……な、何言ってるのよ、あんた!」
大牙が横から怒鳴り散らそうとするが、僕は視線一つで彼を黙らせた。放たれた人斬りの殺気に、大牙の喉がヒュッと鳴る。
「美咲さん。貴方が本当に欲しいのは、そんな虚飾の優しさじゃないはずだ」
僕は彼女の手を自分の頬へと導いた。安物のウォッカに濡れた僕の肌。けれど、その奥にある僕の瞳は、どこまでも澄み渡り、彼女の醜い部分も孤独も、丸ごと見透かしていた。
「僕を、貴方の『刃』にしてください。……貴方の流す涙の代わりに、僕がこの街のすべてを斬り伏せてあげる」
それは、ただのホストの色恋営業ではなかった。
お光さんを救えず、この手で抱くことも叶わなかった沖田総司の、現世における「歪んだ救済」の儀式。
愛しているからこそ身を引いたあの切なさが、今、目の前の女性を「精神的に完全に支配する」ための、凄絶なまでの色気となって牙を剥いていた。
美咲の瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、僕の手の甲を濡らした。
「……レイ、君……」
金で買っていたはずの偽物の夜に、突如として現れた、命を懸けて自分を見つめてくる本物の「狼」。
彼女の心が、大牙から僕へと、音を立てて寝返る瞬間だった。
【破滅のチェックメイト】
「美咲、何寝ぼけたこと言われて流されてんだよ! 早くそのゴミを追い出せって!」
焦った大牙が声を荒らげる。自分の財布であり、プライドの拠り所であるエースが奪われようとしているのだ。当然の動揺だった。
しかし、美咲はもう、大牙の顔を見ようともしなかった。彼女は僕の手を強く握り返し、狂おしいほどの依存の目を向けていた。
「……レイ君。今夜の売上、全部あんたに付ける。……大牙のタワー、全部キャンセルして、レイ君のテーブルで一番高い酒、持ってこさせて」
フロアに、凍りついたような静寂が訪れる。
数百万円のシャンパンタワーの崩壊。それは、大牙というホストの「死」を意味していた。
「ひ、美咲……!? お前、正気かよ!?」
崩れ落ちる大牙を見下ろし、僕は静かに立ち上がった。
暴力で血を流させる必要などない。この街のシステム(金)を操り、相手の存在価値そのものを圧殺する。土方さんが局中法度で隊士を縛り、新政府軍がミニエー銃で僕たちの剣を無価値にしたように、今度は僕が、この夜のルールで大牙を屠ったのだ。
「……大牙先輩。言ったはずです。僕を使い潰すなら、相応の命の覚悟を支払ってもらう、と」
僕は冷たく笑い、濡れたジャケットを脱ぎ捨てた。
美咲の肩を優しく抱き寄せながら、僕はVIP席の奥へと進む。
胸の奥に眠る、あの夕顔の君への純愛の痛みが、僕に無限の冷徹さを与えてくれる。
「御用改め、完了です」
大牙の絶望の叫びを背中で聞きながら、僕は新宿の深淵へと、さらに深く、溺れるように足を踏み入れていった。
【リアル解説】
略奪の夜の世界:*ホスト業界において、他のホストの客を奪う行為は最大のタブーであり、激しい抗争の原因となります。新選組の「局中法度」を体現するレイが、あえてこの街のタブーを犯して大牙を破滅させたのは、彼自身が既存のルールを破壊し、新たな「支配者」となるための宣戦布告なのです。




