第十九章:不夜城の御用改め、牙を研ぐ狼
ホストクラブ「アポロン」の重厚なエントランスの扉を開けた瞬間、暴力的なまでの重低音と、安っぽい煙草、そしてアルコールが気化した嫌な熱気が僕の五感を叩いた。
「おいおいおい、誰かと思えば、ゲロまみれの死体袋が戻ってきたぜ?」
フロアの隅、VIP席のソファーにふんぞり返った先輩ホストの大牙が、下俗な笑い声を上げた。
彼の周りには、太客である派手な女たちと、大牙の機嫌を伺うコバンザメのような後輩ホストたちが群がっている。
あの日、僕を囲み、言葉の暴力でいたぶりながら、限界を超えたアルコールを喉奥に無理やり流し込んだ張本人。
大牙の、あの芹沢鴨のような傲慢な、けれど器の小さい瞳が僕を捉える。
「レイ、お前昨日、よくもまぁ店のベッドじゃなくて自分の家まで戻れたな? おかげでこっちはお前が吐いたクソ高いシャンパンの片付けで大迷惑なんだよ。なぁ、お前ら?」
「言えてます。マジで使えねえっすよね、こいつ」
取り巻きの男たちが、クスクスと品性のない笑いを漏らす。
新宿の「レイ」としての僕なら、ここでただ平身低頭に謝り、さらに無理な飲酒を強要されて、また吐瀉物の海に沈んでいただろう。
だが、今の僕の身体を支配しているのは、血の海と化した池田屋を駆け抜け、仲間の喉笛を躊躇なく掻き切ってきた「人斬り」の魂だ。
僕は何も言わず、ただ静かに大牙を見つめ返した。
【理不尽の極致、降り注ぐ毒】
「あん? 何だよその目は。生意気なんだよ、 junior(新人)の分際で」
大牙は僕の無言の視線に微かな苛立ちを覚えたのか、ソファーから立ち上がると、グラスに並々と注がれた度数の高いウォッカを僕の目の前に突きつけた。
「昨日、お前が潰れたせいで流れた分の売上、どう落とし前つけるんだ? ああ? ほら、とりあえずこれ一気しろよ。お前にできる仕事なんて、これくらいだろ」
周囲の女たちが、面白がるようにスマホのカメラを僕に向けてくる。
「いけー!」「レイ、飲んじゃえ!」
下俗な歓声。
大牙の指が、僕のシャツの襟元を乱暴に掴んだ。その拍子に、せっかく戦装束のように美しく整えたネクタイが歪む。
大牙の顔が近づく。
吐き気がするほどのアルコールの悪臭。あの日、無理やり喉に酒を流し込まれた時の、窒息しそうな恐怖と屈辱が、身体の記憶として一瞬だけ蘇りかける。
「おい、聞こえねえのか? 飲めよ、このゴミが」
大牙はそう言うと、僕の顔に向けて、グラスのウォッカを乱暴に浴びせかけてきた。
―バシャッ!!!
強いアルコールが目に入り、激しい痛みが走る。
仕立ての良い黒いジャケットと、お光さんが触れてくれた僕の肌が、安物の酒で濡れそぼっていく。
大牙たちの爆笑が、鼓膜を揺らす。
「うわ、マジで浴びた!」「ダサすぎ!」
徹底的な理不尽。力のない者が、システムの上位にいる者に、尊厳ごと踏みにじられる夜の街の縮図。
だが。
僕の魂は、驚くほど冷静だった。
(ああ、本当に……芹沢鴨と同じだ。いや、あの怪物に比べれば、お前なんてただの羽虫に過ぎない)
【大逆転の序章、狼の眼光】
僕はゆっくりと、ポケットから取り出したシルクのハンカチで、顔に滴るアルコールを拭った。
その動作の、恐ろしいほどの静けさと、無駄のなさに、大牙たちの笑い声が少しずつ、引きつるように止まっていく。
ハンカチをポケットに戻し、僕は歪んだネクタイを、完璧な所作で結び直した。
そして、大牙の瞳を、真っ直ぐに見据えた。
―ゾクッ。
その瞬間、大牙の身体が目に見えて強張った。
僕の瞳の奥に宿る、幾百人の死体を見下ろしてきた「壬生狼」の圧倒的な殺気。
それは、現代の歌舞伎町でどれだけ暴力を振るってきた人間であっても、決して持ち得ない、「本物の死を背負った男の眼光」だった。
「……大牙先輩」
僕の声は、低く、地獄の底から響くように冷徹だった。
フロアの喧騒が、僕の声一つで、まるで水を打ったように静まり返る。
「ネクタイを汚されるのは、嫌いなんです。……死装束と同じですから」
「は、はあ!? お前何言って……」
大牙が一歩、恐怖に押されるように後退りする。
彼の額から、冷や汗がダラリと流れ落ちた。
彼の本能が、今目の前にいる「レイ」という生き物が、触れてはならない肉食獣に変貌していることを察知していた。
僕は、大牙との距離を、音もなく一歩詰めた。
僕の右手の五指が、いつでも彼の喉笛を、あの池田屋の浪士たちのように引き千切れる「型」のまま、静かに大牙の胸元へと伸びる。
「僕を使い潰すつもりなら、相応の命の覚悟を支払ってもらいますよ」
僕は大牙の耳元で、風鈴の音よりも冷ややかに囁いた。
圧倒的な理不尽に対する、これが僕の、血塗られた逆襲の第一歩。
新選組の法度を破った者に待つのは、死(切腹)のみだ。
「さあ、まずは貴方の『売上(命)』から、僕がすべて美味しく毟り取ってあげます」
大牙の取り巻きの女たちが、恐怖からか、あるいはこれまでに見たことのないレイの「凄絶なまでの色気」に当てられたのか、小さく息を呑む音が響いた。
夜の街の頂点へ至る、修羅の無双劇が、今ここに幕を開けた。




