第十八章:狼の帰還、夜の法度
薄汚いワンルームのユニットバス。
冷水を頭から浴びると、脳の芯まで凍りつくような感覚と共に、完全に「僕」が一つに噛み合った。
鏡を見つめる。
そこに映るのは、かつての覇気のない、怯えたようなレイの顔じゃない。
幾百人の命を奪い、凄惨な戦場を生き抜き、そして最愛の家族たちの死を看取ってきた、沖田総司の――いや、「壬生狼」の瞳だ。
「……待たせたね、みんな。僕の戦場へ行くよ」
僕は静かに微笑んだ。お光さんが愛してくれた優しさは魂の奥底、決して誰も触れられない聖域に厳重に仕舞い込んである。
これから向かうのは、現代の戦場。
優しさなどという生温かいものは、ただ自分を無力にし、使い潰される結果しか生まない。
鳥羽伏見で、そして板橋で学んだ冷徹な現実が、僕の肉体を鋼のように支配していた。
【すべての身支度は、死装束の如く】
僕は部屋に戻り、散乱したゴミを一切目に入れることなく、出陣の身支度を始めた。
クローゼットから取り出したのは、細身の黒いホストスーツ。
かつては「これを着せられている」という感覚だった。けれど今の僕にとって、この衣服を身に纏う感覚は、あの雨の夜に山南さんを、芹沢鴨を暗殺するために身に付けた、漆黒の死装束と同じだ。
シャツのボタンを一つずつ、正確に留めていく。
それはまるで、戦の前に鎧の紐を固く結び直すような、厳かな儀式だった。
ネクタイを締め上げ、襟元を整える。喉の奥にこびりついていたはずのあの「鉄の味」はもうしない。代わりに、底知れない静寂が僕の肺を満たしていく。
最後に、姿見の前に立つ。
髪を整え、ジャケットを羽織る。
腰に名刀『加州清光』の重みはない。
けれど、僕の右手の五指は、いつでも敵の喉笛を正確に肉薄し、引き千切るための「人斬りの型」を完全に記憶していた。
理不尽に酒を飲まされ、ゲロまみれにされて泣き寝入りしていた「かつてのレイ」は、もうこの部屋のどこにもいない。
近藤さんの温かい抱擁と、その最期の微笑。
土方さんの冷徹なまでの組織論。
そして、近代兵器という強大なシステムへの理解。
それらすべてを脳内に宿した、新宿の夜を支配するための「絶対的な覇王」が、そこに立っていた。
「……御用改めだ」
小さく呟いたその声は、かつて池田屋の階段を駆け上がったあの時のように、低く、冷たく、そして鋭利に響いた。
【不夜城への進軍】
部屋を出て、新宿の街へと踏み出す。
五月の夜風が、僕の髪を揺らした。
千駄ヶ谷の陽だまりの風とは違う、排気ガスと欲望の混ざり合った、淀んだ街の匂い。
見上げる空には、星の代わりに狂ったように明滅するネオンの光。
行き交う人々は皆、何かの欲望に飢えた顔をして、足早にコンクリートの床を歩いていく。
(ああ、やっぱりここは、あの京都の街と同じだ……)
誰もが自分を殺し、仮面を被って、一瞬の情愛と金に飢えて彷徨っている。
ならば、僕のやるべきことは一つしかない。
力のない者は毟り取られ、ルールを作る者がすべてを支配する。
この街のシステム(資本)をハックし、僕自身が新選組の、この夜の街の「法度」になるんだ。
目的地が、見えてきた。
僕をゲロまみれにして使い潰そうとした、ホストクラブ「アポロン」の巨大な看板。
その地下へと続く階段は、僕にとって、あの池田屋の、血塗られた階段そのものだった。
僕はポケットの手を抜き、迷いのない足取りで、不夜城の深淵へと足を踏み入れた。
今夜、新宿の夜が、一匹の飢えた狼の牙によって、根底から塗り替えられる。




