第十七章:夕顔の散る刻、そして泥濘(ぬかるみ)の目覚め
慶応四年、五月三十日。
千駄ヶ谷の空気は、僕の命の終わりを祝福するように、どこまでも青く、澄み渡っていた。
僕の喉からは、もう血の泡さえも出なくなっていた。肺は完全に機能を失い、呼吸をするたびに、ただ冷たい虚無が胸の奥に溜まっていく。
山南さんを斬り、平助を失い、近藤さんの首が落ちた。土方さんは今、遥か北の大地で、新選組の残光を背負って戦っている。
すべてが終わり、すべてが去った。
僕をこの幕末に繋ぎ止めていた「誠」の糸は、一本残らず断ち切られていた。
「……総司さん。お薬を、お持ちしました」
お光さんの、震える声。
彼女は僕の枕元に座り、僕の痩せ細った、骨と皮ばかりになった手を握りしめた。
その瞳には、こらえきれない涙が溢れていた。
彼女は知っていたのだ。この陽だまりの時間が、もう数分も持たないことを。
「……お光さん。……ありがとう。貴方の温もりだけが、僕の人生の……本当の光だった」
僕は最後の力を振り絞って、彼女の頬に触れた。
新宿のホスト「レイ」として、偽りの愛を囁いてきた。けれど、死の間際に僕の心を支配していたのは、この純真な町娘への、狂おしいほどに切なく、あまりにも純粋な愛だった。
「行かないで……総司さん、行かないで……!」
お光さんが僕の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
彼女の涙が、僕の肌に染み込んでいく。
温かい。けれど、僕の身体はすでに、死という名の氷の檻に閉じ逼められつつあった。
庭の隅に、一匹の黒猫が姿を現した。
沖田総司の伝説に名高い、死の病床に現れるという黒猫。
僕は枕元に置かれた『加州清光』に手を伸ばそうとした。けれど、指一本動かない。
かつて木刀を振るって無双し、池田屋を血の海に変えた「天才」の肉体は、今やただの物言わぬ抜け殻になろうとしていた。
(……ああ。……お光さん。……みんな。……バイバイ)
視界が、ゆっくりと白夜のように掠れていく。
お光さんの泣き声が、遠く、遠くの波音のように遠ざかる。
僕の胸の奥で、カチリ、と、何かの歯車が止まる音がした。
元治、慶応、幕末――。
僕が命を懸けて駆け抜けた、血と誠の物語が、ここに完全に幕を閉じた。
沖田総司、死去。享年、二十六。
【劇的な覚醒、泥濘の生還】
―ドクンッ!!!
強烈な電気ショックを与えられたかのように、僕の心臓が爆発的な拍動を再開した。
「はっ……、ぶはっ! げほっ、ごほっ……!!」
僕は、猛烈な勢いで息を吸い込み、上半身を跳ね上げた。
肺が、動いている。酸素が、全身の血管を灼熱の勢いで駆け巡る。
だが、口の中に広がったのは幕末の血の味ではなかった。強烈な胃酸の酸っぱさと、安物のアルコールの臭気。
「うっ……げほっ……!」
激しく咳き込むと同時に、視界がゆっくりと焦点を結んでいく。
そこは千駄ヶ谷ののどかな新緑でも、煌びやかなホストクラブのVIPルームでもなかった。
西日の差し込む、新宿の片隅にある僕のワンルーム。
壁は煙草のヤニで黄ばみ、床にはコンビニのゴミが散乱している、薄汚い部屋。
そして何より、僕が今しがた跳ね起きたベッドの上は、自分が吐き散らした生々しいゲロでぐちゃぐちゃに汚れていた。
(……ああ、そうか。僕は、あの夜……)
記憶が、濁流のように脳内に逆流してくる。
そうだ。
幕末に飛ばされる直前、売れない新人ホストだった僕は、太客を捕まえた先輩や売れっ子たちに囲まれ、バカにされながら、断れない空気の中で容赦なく一気飲みを強要されていたのだ。
「飲めよレイ!」「使えねえ奴は身体張るしかねえだろ!」
煽られ、笑われ、胃に限界を超えたアルコールを無理やり流し込まれたあの日。
潰れて用済みになった僕は、文字通りゴミのように店から追い出され、どうにかこの部屋に辿り着いて、ベッドの上でゲロを吐きながら意識を失ったのだ。
自分の無力さに絶望し、涙を流しながら。
僕は、自分の両手を見つめた。
白く、細く、剣ダコ一つない、現代の「レイ」の指先。
シーツに広がるゲロの冷たさと不快感が、ここが紛れもない「現実(現世)」であることを僕に突きつけている。
けれど、僕の魂の深淵には、確かにあの地獄が、そして美しき新選組の日々が焼き付けられていた。
木刀で男の頭蓋を叩き割った感触。
島原の夜に知った、女の魂の孤独。
山南さんの首をはねた時の、絶望の重み。
鳥羽伏見で肉体を解体していった、鉄の雨。
そして、近藤さんが僕を無条件で抱きしめてくれた温もりと、その首が落ちた板橋の圧倒的な悲しみ。
(……戻ってきたんだ。……僕の、戦場へ)
ゆっくりと、僕はゲロまみれのベッドから床へと足を踏み下ろした。
シャワーを浴びるために立ち上がった僕の背筋は、さっきまで理不尽に酒を飲まされて泣いていた「うだつの上がらない新人」のそれではない。
国を揺るがし、何百人もの命を奪い、システムの敗北に抗い続けた「壬生狼」の、凄絶なまでの冷徹さと風格が、その立ち姿に宿っていた。
鏡の前に立ち、汚れを落とした自分の顔を見つめる。
現代のシステム。
資本主義という名の、銃火器よりも強力な兵器が支配する、この新宿。
力のない者は、いいように酒を飲まされ、ゲロまみれにされて使い潰される。あの戦場と同じだ。
だが、もう二度と、あんな奴らに舐められるわけにはいかない。
僕が、この夜の街の「ルール(法度)」になる。
「さあ……仕事を始めましょうか」
レイは、かつてないほど妖艶で、昏い色気を纏った瞳で、眠らない街のネオンへと歩き出した。
理不尽に潰され、ゲロまみれで倒れていたベッド。そこから這い上がった一匹の狼は、もう二度と、誰の軍門に降ることもない。
幕末人斬り転生譚――【新宿ホスト・レイ編】、ここに開幕。
【史実解説】
沖田総司の最期(1868年): 慶応4年5月30日、近藤勇の斬首から約2ヶ月後、沖田は千駄ヶ谷の植木屋の離れでひっそりと息を引き取りました。新選組の全盛期を支えた天才剣士の最期としては、あまりにも寂しく、紙に書いたような静かな死でした。
黒猫の伝説: 沖田が死の直前、庭に現れた黒猫を斬ろうとして、どうしても斬ることができず、「ああ、もう私には猫を斬る力もないのか」と嘆いたという有名な逸話があります。彼の衰弱と無念さを象徴するエピソードです。




