第十四章:油小路の夜、引き裂かれた魁(さきがけ)
慶応三年、十一月。
京の夜風は、もはや肌を刺すだけではなく、僕の肺の腑まで凍てつかせるような死の匂いを孕んでいた。
山南さんを僕の手で介錯したあの日から、僕の心は半分死んでいた。そして今、残されたもう半分の心さえも、最も残酷な形で引き裂かれようとしていた。
病状は、もはや言い訳の立たないところまで進行していた。
不動堂村の屯所の奥、昏い病室で、僕はただ泥のような咳を吐き出すだけの「お荷物」と化していた。
刀を握るどころか、寝返りを打つだけで胸が焼け、血の塊が喉を塞ぐ。
そんな僕の病床に、ある夜、足音を忍ばせてやってきた男がいた。
「……総司。具合は、どうだ」
行灯の仄暗い光の中に浮かび上がったのは、藤堂平助だった。
試衛館以来の仲間であり、池田屋の地獄を共に潜り抜け、互いの返り血を浴び合った、最愛の弟分。
だが、彼の纏う空気は、新選組のそれ(誠)ではなかった。彼は、伊東甲子太郎と共に組織を割って出た「御陵衛士」の、裏切り者の制服を身に纏っていた。
【最後の密会、交わらぬ祈り】
「平助……。どうして、そんな格好をしてここにいるんだ。見つかったら、土方さんに殺されるぞ」
僕はかすれた声で叫び、起き上がろうとしたが、激しい咳に襲われて畳に突っ伏した。口から溢れた鮮血が、白い寝具を汚していく。
平助は慌てて僕の体を支え、その冷え切った手を握りしめた。
「総司、すまない。本当に、すまない……。でも、俺はもう、近藤さんや土方さんのやり方にはついていけないんだ。山南さんを死に追いやったこの組織が、怖くなった。……俺は、俺の信じる道を行く」
平助の瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、僕の手に触れた。
「行くな、平助……!」
僕は彼の衣の袖を、血塗られた指先で必死に掴んだ。
「お願いだ、ここにいてくれ。僕が、僕が土方さんに頼むから。お前までいなくなったら、僕は……僕はもう、どうして生きていればいいか分からないんだ!」
人斬りの冷徹さなど、そこにはなかった。ただ、大切な家族を失いたくないと願う、一人のちっぽけな人間の、血を吐くような懇願だった。
しかし、平助は僕のその手を、優しく、しかし確実に振り払った。
「総司。お前と試衛館で過ごした日々は、俺の宝物だ。……生きてくれよ。絶対に、死ぬなよ」
それが、僕が見た平助の、最後の笑顔だった。
【油小路の惨劇、届かぬ咆哮】
十一月十八日。
運命の夜、油小路の辻は、底なしの地獄と化した。
新選組は伊東甲子太郎を暗殺し、その遺体を囮にして、平助たち御陵衛士を誘い出したのだ。
僕は病床の布団の中で、遠くから微かに響く地響きのような怒号と、金属が激しくぶつかり合う音を聞いていた。
身体が動かない。叫ぼうとしても、喉から出るのは血の泡だけだ。
(…平助……平助ェェェッ!!)
僕の精神は、時空を超えて油小路の現場へと翔けていた。
そこでは、かつての仲間たちが、獣のように牙を剥き合っていた。
近藤さんの「平助だけは逃がしてやれ」という密命。永倉新八さんや原田左之助さんが、どうにか彼を包囲網から逃がそうと、わざと隙を作っている。
「平助! 走れ! 振り返るな!」
新八さんの叫び。
だが、事情を知らない新選組の平隊士、三浦啓之助の白刃が、背後から平助の薄い身体を容赦なく切り裂いた。
――グシャッ、ズバァァァッ!!
「が、はっ……あ……っ」
平助の背中から、肉と骨が断たれる凄惨な音が響く。
血飛沫が油小路の夜空に舞い、彼の若々しい身体が、泥と血にまみれた石畳へと崩れ落ちた。
かつて僕たちが、試衛館の囲炉裏で「いつか天下を驚かせよう」と笑い合った、あの輝かしい未来のすべてが、その一撃で粉砕された。
「総司……新八さん……近藤、さん……」
平助は、かつての家族の名前を虚空に呼び求めながら、己の溢れ出る内臓と血の海の中で、孤独に、あまりにも残酷に息絶えた。
その最期の瞬間、彼の脳裏をよぎったのは、裏切りの大義名分などではなく、ただ皆で笑い合っていたあの温かい試衛館の夜だったに違いない。
【心がすり潰される音、現世への刻印】
翌朝、平助の死が僕の病床に伝えられた。
僕は叫ぶことも、涙を流すこともできなかった。あまりの悲しみと絶望に、心が完全に沈黙してしまったのだ。
山南さんを殺し、平助を殺した。
僕たちが「誠」を求めて作り上げた新選組という怪物。それは、敵を喰らうだけでなく、僕たちの最愛の家族をも一人ずつ無慈悲に噛み砕き、飲み込んでいく。
(……何のための『誠』だ。何のための『天才』だ。僕は、誰も……誰も救えなかった)
布団の中で、僕は自分の血塗られた両手を見つめた。
どんなに木刀で無双しようとも、どんなに真剣で人を屠ろうとも、本当に守りたかったものは、すべて指の隙間から砂のように零れ落ちていく。
この時、レイの魂の最も深い、決して誰も触れられない「深淵(聖域)」に、決定的な傷が刻まれた。
「人は、どれほど大切に思っていても、明日には呆気なく壊れて消えてしまう」という、骨の髄まで染み渡るような、圧倒的な寂寥感。
そして、「だからこそ、目の前にいるその一瞬だけは、命をすべて懸けて愛さなければならない」**という、狂気にも似た切実さ。
この油小路の夜の、心がすり潰されるような悲痛。
それは、レイの胸の奥底に「決して消えない消印」として焼き付けられた。
いつか彼が現世(新宿)のネオンの下に戻った時。
ただ金を稼ぐため、虚飾の笑顔を売っていたチャラいホスト「レイ」は、もうそこにはいない。
女たちの心の奥にある「死にたいほどの孤独」を、自らの血を流すような瞳で見つめ返し、一瞬の情愛に命を懸ける、凄絶なまでの色気を纏った「夜の王」への変貌。そのトリガーは、まさにこの平助の骸の上に置かれたのだった。
「……平助。待っててくれ。……僕も、すぐに行くから」
降り始めた冷たい冬の雨が、僕の絶望を優しく覆い隠すように、静かに屯所の屋根を叩いていた。
【史実解説】
油小路の変(1867年):*新選組から分離して「御陵衛士」を結成した伊東甲子太郎、藤堂平助らが、新選組によって粛清された事件です。新選組の内部抗争において、最も激しく、そして悲しい事件として知られています。
藤堂平助の最期:平助は試衛館以来の生え抜きメンバーであり、近藤や土方も彼の才能を惜しんでいました。近藤は「平助だけは逃がせ」と現場の隊士に命じていましたが、事情を知らない新入隊士によって斬殺されてしまいました。享年24歳。その早すぎる死は、新選組の終焉を予感させるものでした。
沖田総司の病状: この時期、沖田の結核は重症化しており、油小路の戦いには参戦できず、病床に伏せっていました。かつての弟分がすぐ近くで命を落としていくのを、何もできずに聞き届けるしかなかった彼の心中は、想像を絶する絶望であったと思われます。




