第十三章:散りゆく智将、雪の追憶
文久五年(元治二年)、二月。
京の街に、冷たく湿った雪が舞い落ちていた。
かつて新宿の「アポロン」で、シャンパンの泡の中に消えていくような空虚な喧騒に浸っていた僕にとって、この静まり返った壬生の冬は、刺すような痛みを伴う孤独を連れてきた。
だが、今夜僕の胸を刺しているのは、寒さでも病魔でもなかった。
屯所に走った一筋の戦慄。
「山南敬助、脱走――」
その報せは、僕の魂を真っ二つに引き裂くのに十分な破壊力を持っていた。
【優しき兄貴分の背中】
山南さんは、この血生臭い組織の中で、唯一「心」を捨てなかった人だった。
試衛館のあの日、泥にまみれた僕に温かい汁椀を差し出してくれた、あの慈愛に満ちた眼差し。
土方さんの「氷」を溶かし、近藤さんの「熱」を和らげる、新選組の良心そのものだった人。
「……惣次郎。山南さんを連れ戻せ。……お前なら、あの人も大人しく従うだろう」
土方さんの声は、凍てついた冬の夜空よりも冷たかった。
「連れ戻す」という言葉の意味を、僕は痛いほど理解していた。
局中法度、第一条。士道ニ背クマジキ事。
脱走の罪は、切腹。
つまり、僕に「最愛の兄を死地へ引きずり戻せ」と言っているのだ。
僕は、愛刀『加州清光』を掴み、雪の夜へと飛び出した。
肺の奥を焼くような痛みを無視して、僕は馬を走らせた。
(……逃げてくれ。お願いだ、山南さん。僕の手の届かないところまで、歴史のどこか遠くへ消えてくれ……!)
【大津の宿、最後の対峙】
近江、大津の宿。
雪に埋もれた小さな旅籠の二階で、山南さんは一人、静かに酒を飲んでいた。
僕が襖を開けた時、彼は驚くふうもなく、ただ懐かしいものを見るような、穏やかな笑みを浮かべた。
「……来たか、惣次郎。やはり、お前だったか」
「……どうしてですか、山南さん。貴方がいなくなれば、新選組は……近藤さんはどうなるんです」
僕は震える声で問いかけた。
山南さんは窓の外の雪を見つめ、静かに首を振った。
「新選組は、変わってしまった。……刃は、もはや志ではなく、ただの暴力として研がれている。……私は、それを見ているのが辛くなったのだよ。……惣次郎、お前だけは、最後まで『人』でいてくれ。……美しい、夕顔の花を愛でるような心を、捨てないでくれ」
その言葉は、僕の胸の奥底に溜まっていた、血と泥の沈殿物を一気にかき乱した。
新宿で「嘘」を売っていた僕が、この時代で初めて見つけた「真実」の温もり。それが、今、僕の手で奪われようとしている。
「……帰りましょう、山南さん。……壬生へ」
僕は、泣いていた。
人斬りとしての矜持も、ホストとしての虚勢も、すべて雪の中に溶けて消えた。
ただの子供のように、僕は嗚咽した。
山南さんは立ち上がり、僕の頭を、あの日のように優しく撫でた。
「ああ。……帰ろう。……お前が介錯をしてくれるなら、私は何も怖くない」
【雪の切腹、誠の最期】
二月二十三日。
八木邸の座敷には、一面の白布が敷かれていた。
その白さは、これから流される鮮血を待つ、無慈悲な死の舞台だった。
山南さんは、端正な死装束に身を包み、僕の前に座った。
近藤さんは顔を覆って泣き、土方さんはただ一点を見つめて動かない。
「……惣次郎、頼むぞ」
山南さんの澄んだ声が、静寂を切り裂く。
僕は、加州清光を抜き放ち、彼の背後に立った。
手が、震える。
これまで何百人と斬ってきた。池田屋の地獄でも、心は微塵も揺らがなかった。
なのに、この一本の刀が、鉛のように重い。
「……う、あ……」
喉の奥から、咳と共に嗚咽が漏れる。
山南さんは、短刀を腹に突き立てた。
苦悶に顔を歪めることなく、彼は最後まで「新選組総長」としての矜持を保っていた。
僕は、渾身の力を込めて、その細い首へと刃を振り下ろした。
―シュパッ。
白い雪のような布が、一瞬で、鮮やかな紅蓮に染まった。
山南さんの体から力が抜け、畳に崩れ落ちる。
その時、彼の口元が微かに動いた。
「ありがとう」と、そう言ったような気がした。
(……嫌だ。……嫌だ、嫌だ!!)
僕は、血濡れた刀を放り出し、山南さんの骸に縋り付いて泣き叫んだ。
この痛み。この喪失感。
これこそが、僕がこの時代で手に入れた、唯一の「本物」の感情だった。
「……山南さぁぁぁんっ!!」
僕の絶叫は、降り積もる雪に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。
新選組の「心」は、この日、完全に死んだ。
そして僕の肺からは、かつてないほど大量の、暗い血が溢れ出した。
【史実解説】
山南敬助の脱走:元治二年二月、新選組の総長・山南敬助が突如として脱走しました。その理由は諸説あり、組織の変質への絶望や、武士としての矜持などと言われています。
大津での再会:脱走した山南を追ったのは、彼が弟のように可愛がっていた沖田総司でした。山南は沖田に追いつかれると、抵抗することなく共に京都へ戻ったと言われています。二人の間にどのような会話があったのかは謎ですが、多くの創作物で「悲劇の絆」として描かれています。
明里との別れ:伝説では、山南には「明里」という馴染みの芸妓がおり、切腹の間際に格子越しに最後のお別れをしたという切ないエピソードが有名です。
沖田の介錯:山南が切腹する際、本人の希望で介錯を務めたのは沖田総司でした。信頼し合う二人の、残酷で美しい最期の結末。この事件以降、沖田の病状はさらに深刻なものへと向かっていくことになります。




