第十二章:陽だまりの檻、残された時間
池田屋の狂乱が、まるで遠い前世の出来事のように感じられるほど、その部屋は静まり返っていた。
耳をつんざく怒号も、肉を断つ不快な感触も、鼻を突く凄惨な血の匂いもない。
ただ、庭の蹲から時折響く「カタン」という規則正しい竹の音と、初夏の柔らかな陽光に踊る埃の粒だけが、僕の視界を支配していた。
「……総司さん。少し、お顔色が良くなりましたね」
静寂を破ったのは、風鈴の音よりも涼やかな、お光さんの声だった。
彼女は盆に乗せた熱い煎じ薬を傍らに置き、僕の隣に座った。その動作一つ一つが、乱暴に命を奪い合う世界から僕を切り離し、穏やかな「生」の領域へと引き戻してくれる。
【剣を忘れた右手】
僕は、布団から痩せさらばえた右手を這い出させた。
池田屋で、数えきれないほどの浪士の喉笛を貫き、骨を砕いたその手は、今や茶碗を持ち上げることさえ億劫に感じるほど重く、無力だった。
「……お光さん。僕は、ここにいていい人間じゃない。仲間に背を向け、日の当たる場所でこうして休んでいるなんて」
新宿の「レイ」としての僕が、心の隅で自嘲する。
「おい、お前はNo.1ホストだろ。こんな湿っぽい場所で、女に看病されて終わるつもりか?」
けれど、もう一人の僕、沖田総司は、彼女の清らかな瞳に見つめられるだけで、戦う意味も、殺す理由も、すべてを忘れてしまいそうになる自分を、どこか誇らしくさえ思っていた。
「……何を仰るのです。貴方は、十分すぎるほど戦われました」
お光さんは、僕の節くれだった指をそっと包み込んだ。
池田屋で浴びた返り血の熱さとは違う、命そのものの優しい温もり。
彼女の指先が、僕の掌にある剣ダコをなぞる。その感触が、狂おしいほどに官能的で、同時に泣きたくなるほど切なかった。
「この手は……多くの人を、不幸にしてきた手だ」
「いいえ。私を救ってくださった、温かい手です」
お光さんは僕の手に自分の頬を寄せ、静かに目を閉じた。
彼女のまつ毛が微かに震える。そこには、人斬りである僕への恐怖など微塵もなかった。
ただ、刻一刻と削り取られていく僕の「時間」を、懸命に繋ぎ止めようとする必死な願いだけが宿っていた。
【儚き純愛の温度】
僕は、震える左手で彼女の細い肩を抱き寄せた。
池田屋で敵を組み伏せた時のような暴力的な力ではない。触れれば壊れてしまいそうな、硝子細工を扱うような抱擁。
お光さんの着物の襟元から漂う、日向の匂いと薬草の香り。
僕は彼女のうなじに顔を埋め、深く、深く呼吸をした。
肺の奥を蝕む病魔が、無慈悲に「死」を急かす。呼吸をするたびに、命が砂時計のように零れ落ちていくのが分かる。
「お光さん……。もし、僕が……このまま、刀を振れなくなったら」
「……」
「ただの、身体の弱い、何者でもない男になったら……。貴方は、僕を……」
愛してくれるか。
その言葉を飲み込んだ。人斬りとしての矜持が、それを許さなかった。
お光さんは顔を上げ、僕の瞳を真っ直ぐに見つめると、いたずらっぽく、けれどどこか寂しげに微笑んだ。
「総司さん。貴方は、最初から……私にとっては、ただの『総司さん』です。新選組の天才剣士でも、人斬りでもありません」
彼女の唇が、僕の額に触れた。
それは、どんな熱烈な愛よりも、どんな官能的な情事よりも、僕の魂を震わせた。
新宿の「レイ」として、女を悦ばせるテクニックならいくらでも知っている。
けれど、今この瞬間に僕が感じている、胸を掻きむしるような愛おしさは、どの教科書にも載っていなかった。
【遠ざかる蹄の音】
夕暮れ時。
屯所の方角から、隊士たちが馬を走らせる蹄の音が聞こえてきた。
近藤さんや土方さんは、今も時代の最前線で、血を流しながら「誠」の旗を掲げているのだろう。
池田屋の英雄として称えられ、歴史の濁流を突き進む彼らと、この静かな陽だまりに取り残された僕。
(……淋しいな)
ふと、本音が漏れた。
戦えないことが。仲間と死ねないことが。
そして何より、この愛おしい少女を、たった一人この世界に残して逝かねばならないことが。
「……総司さん。お茶を、淹れ直してきますね」
お光さんは、僕の孤独を察したように、あえて明るい声を出して立ち上がった。
彼女が去った後の部屋に残された、微かな彼女の体温と、夕顔の残り香。
僕は、黄金色に染まる庭を見つめながら、一筋の涙が枕を濡らすのを止めることができなかった。
新宿のネオンよりも、池田屋の返り血よりも。
この静かな陽だまりの檻こそが、僕の人生で最も残酷で、最も美しい地獄だった。
【史実解説】
池田屋事件後の沖田総司:池田屋での喀血(昏倒)以降、沖田は以前のように隊務の第一線に立つことが難しくなっていきました。新選組が政治的な影響力を強め、華々しい活躍を続ける裏で、沖田は療養生活を繰り返す「孤独な影」としての側面を強めていきます。
お光(医者の娘)との交流:伝説では、近藤勇が沖田の病状を案じ、また恋によって剣が鈍ることを恐れて、お光との仲を強制的に引き裂いたとも言われています。本作では、それを沖田自らの「人斬りとしての葛藤」と、忍び寄る死の影による「儚い愛」として描きました。




