第一章 : セレーニア~全世界にて~
夜の戦場。
剣と剣がぶつかる音。
怒号が飛び交い、血の匂い。
「押し返せッ!あと一歩だ!」
指揮官の叫びが響く。
その時だった。
「……なんだ、この音……?」
誰かが呟いた。
最初は、皆が少し変わった風の音かと思った。
だがはっきりと聞こえてきて、違うと分かった。
それは、歌だった。
どこからともなく響く、澄み切った声。
「……は……?」
剣を振り上げていた兵士の手が止まる。
敵も、味方も関係なく。
全員が、同時に動きを止めた。
静かに、優しく。
けれど、確かに心の奥を抉るように、歌は続く。
「なんで……」
一人の若い兵士が、剣を落とした。
「……泣いてるんだ、俺……」
頬を伝う涙。
何故なのか、その理由は分からない。
ただ、どうしようもなく胸が苦しい。
そして同時に、救われたような感覚。
「……やめろ。」
別の兵士が呟く。
「もう……やめよう……。」
誰も命令していない。
それでも、剣を握る手が緩む。
その夜。
一つの戦場で、一夜だけ、戦いが止まった。
理由は、誰にも説明できなかった。
ただ、“歌が聞こえたから”としか。
高くそびえるステンドグラスに、静寂に包まれた祈りの場。
「……っ!」
白衣の神官が、はっと顔を上げる。
「この空気は……」
空気が震えている。
いや、違う。
誰かが歌っている。
「まさか……」
奥にいた老司祭が、杖を震わせる。
「……“Elegy to Selene”……」
その名を口にした瞬間、場の空気が変わった。
「司祭様、あり得ません……あれは……あれはっ!」
「初代救世主の……祈りの歌……」
若い神官たちがざわめく。
「セレーニアの声がここまで届くわけがありません。それに、記録では、ここまで完全な形で再現できた者はいないはず……!」
完璧な旋律に完全な詠唱。
一切の乱れがない。
「……本物だ。」
老司祭が、膝をついた。
「本物の……救世主が、現れた……。」
その言葉に、神官たちも次々と跪く。
皆がその歌に、敬意を示した。
そして、この歴史的瞬間に立ち会っていることに、深く感動した。
月明かりの下。
巨大な魔物が、大地を踏みしめていた。
その目は濁り、理性などなく、ただ、破壊と捕食のためだけに存在している。
でも、
「……」
ふと、動きが止まった。
耳を震わせ、聞こえてくる歌に集中する。
「……グ、ォ……」
初めての感覚に困惑の唸り声を上げる。
しかし、その歌を聞くにつれ、次第に静かになる。
そしてついに、魔物はその場に座り込んだ。
月を見上げる魔物の目からは、ゆっくりと一筋、涙が落ちた。
理性のないはずの存在が、その夜だけは、何かを思い出したかのように静かであった。
灯りの少ない、小さな家。
病に伏した少女が、息を荒げていた。
「……お母さん……苦しいよぉ。」
弱々しい声。
母親は手を握ることしかできない。
「大丈夫、大丈夫よ……きっと、神様が助けてくださるから。ね?」
そう言いながら、涙がこぼれる。
その時。
「……あれ?」
少女が、目を開けた。
「歌……?」
かすかにでもはっきりと聞こえる声。
やわらかく、包み込むような音。
「……きれい……」
少女の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「……あったかい……」
母親は息を呑み、額に触れる。
「……熱が、下がってる……?」
あり得ない。
さっきまで、あんなに苦しんでいたのに。
少女は、穏やかな顔で目を閉じた。
「……久しぶりに、苦しくないよ……!ちょっと寝るね......。」
そうして少女はすやすやと眠る。
可愛らしい寝息を立てながら。
母親はその手を握ったまま、ただ泣いた。
救ってくれたその歌に、声の主に感謝をしながら。
「報告します!」
玉座の間に、兵が駆け込む。
「各地より同時報告!謎の歌声が全域で観測されています!」
ざわめきが広がる。
「内容は!?」
「不明です!しかし、魔物の活動停止、戦闘の中断、回復現象など——異常事態が多発!」
「発生源は!?」
「……現在、特定中ですが——」
兵は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……オルマンス北方、山岳地帯と推定されています」
その一言で、場の空気が凍る。
「……はぁ......あの国の第三王子率いる隊が向かった方向だな」
誰かが低く呟いた。
玉座に座る人物が、静かに目を閉じる。
「……来たか、遂に救世主のお出ましか。しかも.....初代に匹敵する力を持つと思われよう。あの時代は変革の時代だったそうだ。気を引き締めなければな。」
その声は、重かった。
世界中が、その歌に触れていた頃。
丘の上では一人の少女が、歌い終えた。
その歌が、どれほどのものだったのか。
本人だけが、知らないまま。




