1-4. 上司と部下と騎士(1)
ローウェルの発言に嫌な予感を覚えたアシュリーは、周囲を見回して逃げ道がないかを探す。
室長室は研究室の何代か前の室長に逃亡癖があったらしく、他の研究員が働いている場所からでも姿が見えるように壁の一部が硝子張りになっている。それは例えば、意に添わない行為をされた場合でもすぐに研究員が助けに入れると言うことだ。
けして逃げることができないわけではない。扉は閉ざされているが、シラを通しきって逃げ出せば、上司は追ってこないだろう。ただし、間違いなくそのあとに何らかの方法で自白薬を飲まされるところまでがセットになるのは目に見えているけれど。
必死に脳を働かせて、この状況を打破する方法を考える。前髪に隠れていて見えないが、その下ではアシュリーがどんな反応をするのか、楽しげな瞳をしていることだけは窺い知れた。
「……せ、んじつ頂いた休暇に、実家に帰ったのですが」
考えても悪い結果しか思い浮かばず、アシュリーは観念して話してしまうことにした。考えてみれば部下とは言え田舎の男爵家の婚約事情など、ローウェルにとってはどうでもいいことだろう。
「父から婚約の話が来ていると言われまして」
「ふうん、とうとうアシュリーちゃんも人妻なんだね」
「勝手に人妻にしないでください。わたしは結婚する予定はありません」
「だってそこまで思い悩むってことは、断れない相手なんでしょ」
「そうなんですけど……!」
がっくりと肩を落としながら、アシュリーは上司の言葉に頷く。
「話が出来過ぎてて逆に不安になるというか……田舎の男爵家の、貴族の枠からはみ出ている娘に来る縁談にしては良縁過ぎて怪しくて」
「前々から思ってたけど、アシュリーちゃんって自己評価本当に低いよね。おまけに拗らせてるし」
「うぐっ……」
図星に刺さり、思わずアシュリーは小さく唸り声を上げてしまった。
そんなアシュリーの様子を、相変わらず面白い反応をするなあと思いながらローウェルは見下ろす。そしてふと、彼は視線を硝子の外に走らせた。
視線の先には、ひとりの青年が白衣を着た研究員に話しかけている姿がある。青年がその身に纏っているのは、この国を守る騎士の証である制服だ。
彼の姿を目にして、ローウェルは面白そうに口角を上げた。
俯いているアシュリーに見えなかったのは、果たして幸だったのか不幸だったのか。
「そこまで邪推しなくてもいいと思うけどな。相手が誰なのかは教えてもらった?」
「いえ……怖くて肖像画も見られなくて」
「だったら、どこの家から婚約を申し込まれているか知ったら考えも変わるかもよ。爵位が上だって言うなら、相手があの《ヴィルヘルム・ラインフェルト》でもおかしくないわけでしょ」
上司の口から出てきた名前に、アシュリーは一瞬瞳を揺らした。
──ヴィルヘルム・ラインフェルト。
ラインフェルト家は代々王家に忠誠を誓う、由緒正しい家だ。優秀な者は男女問わず王家に取り立てられ、その才を発揮する。ヴィルヘルムはそのラインフェルト家現当主の次男で、若くして王国騎士団副団長を務めていた。
艶やかな漆黒の髪に、魅入られてしまいそうな深紫の瞳を持った端整な顔立ちをした美丈夫で、令嬢たちの憧れの存在だ。
苦労をしているだろうとローウェルの部下だと言うことで何かと気にかけてくれる彼の人の姿を思い出し、それからわざとらしいぐらいの明るい声でアシュリーはローウェルの言葉を否定した。
「その場合は速攻で断るに決まってるじゃないですか。わたしはどちらかと言うと、ラインフェルト副団長の幸せを遠くから見守る名無しのモブBとかになりたいです」
「わざわざモブを選ぶあたり、さすがアシュリーちゃんだよね。ボクは君のそういうところが好きだよ」
「ありがとうございます」
楽しそうに笑みを浮かべながら、ローウェルは「だけどさあ」と脱線した話を元に戻す。
「あんまり難しく考えない方がいいと思うけど。ああ、間違っても婚約の話を白紙にしようとして他に婚約者を作ろうとしたり、貴族籍を抜けるために不祥事起こしたりしないようにね。その方が都合が良いって思う質の悪い野郎はいくらでもいるから」
「……館長は人の心も読めるんですか」
「読めないって。アシュリーちゃんが考えられるとしたら、そのぐらいの単純なことかなあって思っただけ」
「はあ」
「あ、それから言っておくけど相手はボクじゃないよ。何せボクはもう薬学と結婚しているから」
「いえ、その心配は初めからしてないので大丈夫です」
上司は確かにアシュリーよりも爵位は上だけれど、変人として有名なローウェルの話を両親が知らないはずがない。相手が彼ならあんな言い方はしないはずだ。
それに同じ秘密を抱える同士ではあるけれど、アシュリーとしても上司と結婚は絶対に嫌だ。仕事の関係もあるが、何より常に検体にされるかもしれないという不安を抱えながらの結婚生活は勘弁してもらいたい。
「とりあえず今は何も考えないで、美味しいもの食べて飲んで遊んで、そのあとで考えたらいいんじゃないかなあ。ほら、ちょうどここに三日後の舞踏会の招待状がある」
「おかしくないですか? 明らかに用意してましたよね、それ」
「細かいことは気にしない気にしない。絶対に参加するようにって言われてたんだけど、パートナー必須で困ってたんだよね。ちょうど良かった」
白衣のポケットから取り出された招待状を半ば押し付けるように渡されて、アシュリーは思わず突っ込みを入れてしまう。
見慣れない印で封をされたその封筒は、すでに一度開封されているようだった。封筒に使われている紙もまた、この世界でアシュリーが使うものよりも遙かに良いものだ。
「ね? ボクにエスコートされて美味しいもの食べるだけの簡単なお仕事だよ? しかも特別給金付き」
「食事とお金で釣るのは卑怯では……」
「やだなあ。使えるものなら何でも使うのがボクの信条だからね」
「……何か良からぬことを考えてません? やっぱりわたしは遠慮させてもらいたいんですが」
「だーめ。どうしてもって言うなら上司命令にしちゃおうかな」
「そのときはパワハラで訴えます」
「じゃあ」
そう言って、彼は身を乗り出してアシュリーの方へ手を伸ばしてきた。そして彼女の頤に指を掛けると、口角を持ち上げて面白そうに笑う。
「──訴えられたくないから、お願いしてる時点でいいよって言って?」
「かん、ちょう……?」
前髪の隙間から琥珀色の瞳が覗く。このような状況に慣れていないアシュリーの胸は思いがけず高鳴ったけれど、ローウェルの瞳の中に浮かんだからかいの色を見て、すぐにその気持ちを引っ込めた。
「館長、人で遊ばな──」
いでください、とアシュリーは苦言を続けようとした。だが、何やら騒がしい部屋の外からの声に言葉が途切れてしまう。
どうやらその声はこの室長室に近付いてきているようだった。何か起こったのだろうかと席を立とうとするが、目の前で楽しそうな雰囲気を醸し出している男の所為で身動きが取れない。
そうこうしているうちに室長室の扉が、勢いよく開け放たれた。
「ローウェル!」
いつもはあまり変わらない表情を焦りの色に変え、艶のある黒髪を乱して部屋に飛び込んできたのは、この国の騎士団服を身につけた男だった。
深紫色の瞳がローウェルとアシュリーの体勢を見て、険しく歪む。
そしてずかずかと室内に入り込んできたと思うと、その人はアシュリーに触れているローウェルの手を払い、彼を睨みつけた。
「ラインフェルト副団長……?」
驚いたようにアシュリーが声を上げる。何せその人はつい先ほど会話に出た、この国の騎士団のナンバーツー、ヴィルヘルム・ラインフェルトだったのだから。
彼はローウェルに向けていた視線をアシュリーの方へと向けてくる。その表情には先ほどまでの険しい顔付きはなく、どこか優しげで労るものだった。
「何かおかしなことはされていないか、アシュリー嬢」
「え? あ、はい、大丈夫です。……まだ」
「まだ?」
こっそりと呟いたつもりだったが、見事に言葉を拾われてしまった。次の瞬間には、ヴィルヘルムは再び鋭い視線でローウェルを睨みつける。
だが睨まれている当人のローウェルは涼しい顔で「やあ、ヴィルヘルム」と軽い挨拶をして、ヴィルヘルムの眉間の皺を増やしていた。
「ローウェル、お前は俺を怒らせたくてここに呼んだのか」
「違う違う、全然別件。そんな怖い顔しないでよ。アシュリーちゃんとはただの面談。最近残業が多いから、その原因は何かなーって話してただけ。ね?」
「そうなのか?」
危うく話で済まなくなりそうだったが、ローウェルの言葉は間違いではないので、アシュリーは首を縦に振った。




