1-3. 上司と部下
実家から戻ってきて一週間。気付けばアシュリーの口からは、重苦しいため息ばかりが零れていた。頭の中を過ぎるのは、父からされた婚約の話ばかりだ。
話を聞かされた夜は、父の話がぐるぐると頭の中を回って碌に眠れなかった。
翌日、何か言いたげな両親の視線を振り切り、休日明けに上司に提出しなければならない書類を作り忘れていたから急いで帰らないとと嘘を口にして領地を後にした。母が言っていた机の上の肖像画には手を付けずに。
それから父の話を思い出さないようにするために、アシュリーは仕事に走った。
幸いだったのは新刊の発売日が重なり、多くの本が図書館に入荷したことだろう。一心不乱に手を動かして次に何をするかを考えていれば、婚約の話を考えなくて済んだ。
入荷してきた本を貸し出しできるように処理をして棚に並べる。貸し出しのお客様の対応もし、デスクワークだって少なくはない。
加えて《上司》に呼び出しをされればアシュリーは席を離れることになる。それもまた仕事ではあったが、その間抱えている仕事は止まってしまう。
それでも、定時までには意地でも終わらせて帰宅していたのだ。
だがここ数日は一段落して手が空くと、ふとしたときに父からされた話が頭を横切って手が止まってしまい仕事が遅れ、気付いたら残業コース一直線。
致命的なミスを犯していなかったことだけが救いだった。
仕事に私情を持ち込むことは良くないことだとはわかっていたが、発散できるところがなく、定時に帰る同僚に心配されながら仕事を片付ける。
だがさすがに一週間も続けば上は看過してはくれなかったらしい。
いつも通り呼び出しをされて、そのときに頼まれた本を抱えて研究室に向かうと、お目当ての人物は珍しく真面目に仕事をしている最中だった。
「あの、これ館長から届けるように言われて持ってきたんですけど、忙しいみたいなので、渡してもらってもいいですか?」
「ああ、いつもごめんね。わかった、預かって……」
「いいよ、もう終わるからアシュリーちゃん待ってて」
「あー……だそうだから、申し訳ないけど待っててくれる?」
「……はい」
さすがに話しかけることは躊躇われて、近くにいた顔馴染みの研究員に頼まれた本をお願いしようとしたのだが、その前に制止の声が掛かり逃げる機会を失う。
「ん、じゃあアシュリーちゃん行こうか」
「はい?」
間もなくして目当てのその人はそう言って腰を上げると、ヨレヨレの白衣を翻し、唖然とするアシュリーの手を引いた。
はっと我に返ったときにはすでに遅く、連れて行かれたのは室長室だった。床の上には本の塔が出来上がり、仕事机だと思われる場所には相変わらず書類が散らばっていて、一体どこで仕事をしているのだろうかと疑問に思うほどだ。
だが、恐らくは今アシュリーが腰を下ろすように言われたソファーの前にあるこのテーブルで仕事をしているのだろう。テーブルの上は不気味なぐらいに小綺麗だった。
「あ、頼んでた本は適当にその辺に置いといて」
「その辺……?」
と言われても、どこも書類の束だらけだ。仕方なく仕事机の上を片付けて、空いたスペースに持ってきた本を置いた。
そして用が済んだので帰ろうとしたのだが、踵を返す前に掛けられたのは問いかけだった。
「アシュリーちゃんさあ、何かあったの?」
どこか気怠げな雰囲気を浮かべる男は、こてん、と首を横に傾げてアシュリーに問いかけた。
こんな雰囲気だが、まさかこの人がこの国──どころかこの辺り一帯の国では有名な薬学研究者であり、名門公爵家の出である歴とした貴族だとは、この姿を見ただけでは気づけないだろう。
この室長室の今の主であり、そしてアシュリーの所属する王立図書館の館長を兼任して勤めているのが彼──ローウェル・カルヴァートだった。
シルバーブロンドの髪はぐちゃぐちゃで、長い前髪に隠れて琥珀色の瞳は見えない。せっかく整った顔立ちをしているのに勿体ないが、本人曰く「女の子にモテても、新しい薬は作り出せないからどうでもいい」とのことで、まったく無頓着らしい。
骨の髄まで薬学に陶酔している変態だと、彼の幼馴染みの騎士団員が口にしていたのを聞いたことがある。
「いいえ、別に」
アシュリーは一瞬呆気に取られたが、首を横に振って彼の言葉を否定する。けれどローウェルは納得してなさげに「ふうん」と頷いた。
「じゃあ、ボクの新しい薬の被験体にならない? 聞かれたことには嘘偽りなく答えを言いたくなっちゃう自白薬なんだけど」
「館長、世間一般ではそれは脅迫と言うんですけど、ご存じですか」
「ボクの知ってる辞書では脅迫ではなくて優しさって書いてあるんだけど、うーん、おかしいなあ」
それは間違いなく館長だけですと返そうとしたが、一応は上司なので、アシュリーはぐっと堪える。
恐らくこの研究室とそして図書館、この二点に絞って言えば、ローウェルと最も気心が知れた仲なのはアシュリーだろう。
それは何故かと言えば、目の前の上司もまた、アシュリーと同じく《前世》の同じ世界──すなわち、この国、否、世界からすれば、異世界に当たるのだろうが──で生きていた記憶を持つ人間だったからだった。
ただ、物語で読みました、と誤魔化し続けていたアシュリーと違って、ローウェルは物心付くころからそのことを隠してはいなかった。もちろんほとんどの人は彼の言葉を真に受けず、変わった人間だと認識しているようだが、その所為で奇異な視線を向けられていた。
恐らくアシュリーも上司と部下という関係でなければ、極力関わりを避けていたに違いない。




