3-6. 彼の本音(3)
驚きで動けないアシュリーの頬に躊躇いがちにヴィルヘルムの手が伸ばされ、そっと指先が涙を掬う。
「……それともやはり、俺は《あなたに》嫌われてしまったのだろうか」
その声はどこか悲しげな音をしていて、慌ててアシュリーは首を横に振った。
「良かった」
ほっとしたようにヴィルヘルムの頬が僅かに緩む。その表情はどこか可愛らしくて、どきりとした。
けれどアシュリーの心はまだ困惑で揺れていて、どう返事をするのが正しいのかわからず、言葉に詰まる。
──だってこれではまるで、ヴィルヘルムの想い人がアシュリーなのだと言っているように聞こえるのだ。
「あの、ええと……」
もしかしたらという希望を持ってしまい、アシュリーの頬が赤くなる。
そんなことが、あるはずない。この、望みを持ってしまいそうな空気を誤魔化さなければ。そう思って慌てて言葉を絞り出す。
「な、なんか誤解してしまいそうですね。ラインフェルト副団長にそんな、誤解してしまいそうなことを言われてしまったら、ちょっとドキッとしてしまいます。自意識過剰だってわかるのに……変なこと言ってごめんな……え?」
落ちてきてしまった後れ毛を耳に掛けながら作り笑い交じりにヴィルヘルムを見つめたら、彼の頬も僅かに紅潮していて、驚きから言葉が途切れる。
目線を逸らし、口元と頬を隠すようにヴィルヘルムが手のひらで顔を覆う。
それはまるで、アシュリーの言葉を肯定しているような反応だった。
「自意識過剰では、ない」
口元を押さえたヴィルヘルムがしっかりとした声で言った。
「アシュリー嬢、俺が好きなのは、あなただ」
逸らされていた目がアシュリーを迷いなく見つめる。飾った言葉は何もなく、真っ直ぐに想いを告げられて、驚きで何も考えられなくなった。
「……っ」
やっとのことでヴィルヘルムの言葉を飲み込んだアシュリーは、我に返った自分の顔が再び熱くなっていくのを感じた。
こんなことは、ありえないと思っていた。想いを寄せていた人から告白されたことは、願ってもない喜びだ。これ以上ない幸せだろう。
けれど、自分はヴィルヘルムには相応しくないという思いが湧いてしまい、素直に頷けなかった。
それに先日までならともかく、アシュリー自身は承知していないが、婚約者という存在ができてしまっている。どんな相手なのかは知らないけれど、それでも夫以外の相手を作って恋人……愛人関係を築くなんてことはしたくないし、ヴィルヘルムにも失礼だろう。
彼を傷付けることになるのはわかっている。ヴィルヘルムの恋の成就を願いながらも、彼の手を取らず、振り払うことを選ぶのはアシュリーのエゴだ。
それでも、婚約者ができてしまったアシュリーとでは、ヴィルヘルムに幸せは訪れない。
そのことを考えたら、嫌われてでもここで突き放すのが最善に思えた。
──部屋に戻ったら、婚約の話を前向きに進めたいと実家に手紙を書こう。
そうしたら両親はきっと、そう遠くないうちに相手に会う機会を設けてくれるはずだ。そのときに相手の方にはきちんと処女ではないことを伝えて、その上で改めて考えてもらおう。
婚約の話が破談になったときは、家を出て修道院に行く。
掴まれていない方の手をぎゅうと強く握ると、爪が少しだけ食い込んで痛んだ。
ヴィルヘルムにとっては望まない答えだろうけれど、アシュリーは返事をするべく、口を開いた。
……けれど口を開くのと同じタイミングでどこかの扉が開く音がして、アシュリーは開きかけた口を閉ざしてしまう。
音の方向にある部屋は、ひとつだけだ。視線を向けると、いつものだらしない格好であくびをしたローウェルが館長室から出てくるところだった。
彼は廊下の真ん中にいるアシュリーとヴィルヘルムに気付くと、掴まれたアシュリーの腕を見るなり目を細める。
「良いところを邪魔しちゃったかな」
含みのある笑みでそう言われて、冷めかかっていたアシュリーの頬が再び赤くなっていく。
「……アシュリー嬢」
羞恥心のあまりアシュリーが何の反応も返せないでいるとヴィルヘルムに名前を呼ばれて、思わず、びくりと肩が揺れた。
視線を上げると、不安げに揺れる瞳とぶつかる。
「仕事は定刻に終わるだろうか」
「な、にもなければ……終わると思いま、す」
アシュリーが辛うじて絞り出した声は掠れてしまった。
「なら、その時間に迎えに来る」
「ラインフェルト副団長、わたしは……っ」
彼の告げてくれた言葉に対する回答は、もう出ている。けれど、出した答えを口にするより前にアシュリーはヴィルヘルムに腕を引かれ、抱き締められていた。
腰に腕が回り、力強いその温もりに舞踏会の夜を思い出して、体が熱くなる。
「まだあなたに伝えていないことがある。告白の返事は、それをすべて聞いてから教えて欲しい」
目を見開いたアシュリーの耳にヴィルヘルムの囁きが落ちてくる。
抱擁はすぐに解かれて、掴まれていた腕の拘束もなくなると、そのことに少しだけ寂しさを感じてしまう。
冷静そうな口調だったので、てっきり涼しい顔をしているのかと思ったが、アシュリーが顔を上げた先に映ったヴィルヘルムの頬はまだ赤みを帯びていた。
「……引き留めて、すまなかった。また後で」
掛けられた言葉に戸惑いがちに頷くと、ヴィルヘルムは僅かに頬を緩ませてからアシュリーに背中を向けた。
彼が足を向けた先には面白そうな顔でふたりのやり取りを眺めていたローウェルがいる。
「君たち見てると、お互い初めての彼氏彼女っていう中学生くらいの初々しいカップル見てるみたいで面白かったのに。とうとう丸く収まっちゃうのかと思うと、名残惜しいものがあるよね」
「……」
「そんな怖い目で睨まれたら、アシュリーちゃんにも怖がられちゃうと思うなあ」
「……お前とアシュリー嬢を一緒にするな」
揶揄するような口調で、ローウェルはヴィルヘルムに話しかける。その声は面白そうで、楽しげで、そしてどこか嬉しそうだった。
アシュリーはふたりの姿が館長室の方へ遠ざかっていくのを、ただぼうっと見つめる。
そして不意に、ローウェルが足を止めて、振り返った。
「アシュリーちゃん、一先ず難しいことは考えないで、気持ちのままに動いてみることも、たまには大事だと思うよ」
館長室の中にいたローウェルに、アシュリーとヴィルヘルムの会話は聞こえていないはずだ。聞いていたのは、仕事が終わってから会うという約束を取り付けたところのみ。
なのに彼は話を聞いていたように適切な助言を寄越してくるのだから、恐ろしい。息を呑んだアシュリーに、ローウェルは口角を上げて楽しげに笑った。
「かっ館長、助言ありがとうございます! まだ仕事がありますので、わたしはこれでっ」
ヴィルヘルムが足を止めて振り返ろうとしているのが目に入り、アシュリーは慌てて、頭を下げる。
そして彼と目が合う前に踵を返し、その場に背中を向けた。
ローウェルがヴィルヘルムに何やら言っている声が聞こえたけれど、アシュリーの頭はただこの場から去りたい一心で、会話の内容までは聞き取れなかった。
もう数えられないほど通った廊下を早足で歩く。
何も考えないように床を叩く自身の足音に意識を集中させるようにしたけれど、館長室から遠ざかり、受付カウンターへ続く扉が見えたところでひと息ついたら、先ほどの出来事を否応なしに思い出してしまった。
──ヴィルヘルム様に、告白、され、た……
真剣な眼差しで、緊張を孕んだような少し強張った声で、真っ直ぐに伝えられた告白を思い出して、反射的にアシュリーは両頬を押さえた。
嬉しくて心が弾むけれど、断るためにまた、ヴィルヘルムと会わなければならない。そのことがアシュリーの胸を苦しめる。
ローウェルが現れたのは偶然だったにしても、きっとヴィルヘルムはアシュリーの答えに気付いていただろう。その上で答えを保留にして、伝えたいこととは何だろう。
『また後で』
その言葉にアシュリーが頷いたら、嬉しそうに頬を緩めたヴィルヘルムの表情を思い出す。
「……ままならない、なあ……」
せっかく好きな人が自分のことを好きだと言ってくれたのに、それを断らなければいけない。
人生はそう上手くはいかないと言うけれど、転生して二度目の人生を与えてくれたのなら、好きな人と結ばれるくらいの特典を与えてくれても良かったのに。
八つ当たりだとわかってはいるが、そんなことを思わずにはいられなかった。




