2. こぼした火傷ではありません
診療の間に吊るした薬草が、手燭の灯に細長い影を揺らす。裏口の外で、川の音が低い。寝台の娘は頭巾を脱がず、灯の下でも顔を伏せていた。
フィデールが竈で湯を沸かし、垂れ目を伏せて運んでくる。丸い鼻の先に、ほわりと湯気。娘の痩せた小さな肩が縮まり、布に包まれた右手は膝に押しつけられている。夫がその手の下へ、大きな掌を差し出した。
「……まず、手を、見せてください。布は、私がほどきます。引っ張らずに、そのままで。痛ければ、言ってください」
ほどけた布の下は赤く腫れ、膿んでいる。エムリクは娘の腕を支え、布を引く指を止めた。
「これは、こぼした火傷ではありません」
熱い湯が、甲の上から指へ伝った形だ。自分の擦り傷をかばうように、私は掌を握る。娘は荒れた左手で頭巾を掴んだ。そばかすの頬が隠れ、声だけが湯の沸く音の下を這う。
「……聖女さまのお茶が、ぬるいと。三日前の夜です。王宮の東の離れで、私の手に、茶の湯を……注がれて。まだ、熱いんです。もう、お湯はかかっていないのに、ずっと……」
私は膏薬の壺を彼のそばへ置いた。娘の目が、壺から離れない。包帯に触れないところへ椅子を寄せ、頭巾の陰をのぞく。
「お名前は? お呼びする名を、教えてくださる?」
「ナノン、です。神殿の癒し手には、行けなくて。聖女さまのおそばの方ですから……ここなら、人目につかないと。お許しください。ほかに、手を診ていただけるところがなくて……」
熱を持つ指に、夫が布を重ねた。ナノンの口の端が引きつる。私の掌に塗られたのと、同じ匂いだ。私を罪人にした娘の手にも、同じように塗られている。私は膝の上で掌を伏せた。
「一つだけ。あの夜、聖女さまの杯に触れたのは、どなた? 見たままを、聞かせていただけます?」
「わ、私は、見てないんです。あの夜は、九つの鐘から十の鐘まで、控えの間で湯を沸かす当番で。大広間には、行けませんでした。杯も、見ていません。ほんとうです。そこには、いなかったんです」
沸く湯の音が、急にはっきり聞こえる。詮議で最初に聞いた言葉が、一字ずつ、声の高さまでそのまま耳に戻ってくる。
〈九つの鐘が鳴ったとき、大広間の柱の陰から、アルメル様が聖女さまの杯に白い粉を落とすのを見ました〉
頭巾の端に、ナノンの指が食い込む。私は口元を緩めた。右の中指の筆だこを、膝の上で押さえる。
「あなたは詮議で、『九つの鐘が鳴ったとき、大広間の柱の陰から』見た、と仰いましたわね? 控えの間で湯を沸かす当番なら、柱の陰には立てませんわね?」
「……私は、言わされたんです」
最後の語が、細く裂けた。布団の縁を掴む指は白い。私は彼女の目を見たまま、椅子から体を乗り出す。
「どなたに? 見ていないと言うだけでは、許されなかったの?」
ナノンは頭を振る。返事の代わりに、頭巾がかさかさ鳴った。エムリクは彼女の右手を布団の上へ戻し、私を見る。
「……今夜は、熱を下げるのが先です。話は、ここまでにしてください」
「でも、エムリク様。この子の言葉で、私はあの床に――答えを、まだ聞いておりませんわ」
「……あなたの手も、握ったままです」
「痛くありませんわ。今は、私の手の話ではありません。診るお相手を、増やさないでくださいませ」
言われて、握っていた手をほどく。エムリクは湯で湿した布をナノンの指先に置いた。布の重さまで受けるように細い指先を添えたまま、私の手へ目を戻す。
「……痛む手は、休めます。あなたも、です」
「……ええ。今は、手の傷を休めるところですわ。ナノン、横になってくださいませ。杯の問いは、もうおしまいですわ。布が引っ張られないよう、こちらを空けますね」
寝台の端を離れると、ナノンの左手が私へ伸びかけた。何も掴まずに、また頭巾へ戻る。開いたばかりの私の手を見て、彼女は小さく口を開く。
「アルメル様……こんなことを言った私を、寝かせてくださるんですか? 外へ出ろと、仰らないんですか? お声を聞いたとき、もうここにも、いられないと思って……」
フィデールが湯の器を置いた。丸い鼻をこちらへ向けてうなずき、寝台の横へ回る。
「奥様、枕は私が直します。ここは患者にお休みいただく寝台でございます。湯も、まだ温かいままでございます」
エムリクの背に、「私を、信じてくださるの?」が訊けない。手当てをする指は、私を罪人にした証人の手にも、痛まない置き場を探している。傷なら、黙って差し出すだけで、この人に見つけてもらえた。
ナノンが目を閉じる。私は右の中指の筆だこをさすりかけて、やめた。膏薬の匂いの残る掌を、もう握らずにおく。
◇
朝の光が、表の扉の鉄の鋲を白く光らせる。開いた扉の向こうに、殿下と聖女さまが立っていた。白い布を持つ聖女さまの後ろに神殿の護衛。夫の後ろでフィデールが戸を支える。通りの向こうでは、町の人が足を止めている。その視線の先で、聖女さまは布を広げた。
「罪を犯した方にも、祝福を。アルメル様、わたくし、お顔を見たくてまいりました。罰を受けておいででも、遠慮なさらないで。祝福は、皆に等しく届くものですから。中へ入れてくださるわね?」
殿下の視線は、私の顔を通り越して、戸の隙間へ向く。
「侍女が一人、昨夜から戻らぬ。北の外れへ走るのを門番が見ている。ここへ来たか? 処刑人、名を答えよ。王宮の侍女の行方だ。隠し立ては許さぬ」
「……裏口の患者のことは、申し上げられません。名を外へ出さないのが、この家の決まりです」
「処刑人の分際で、王太子に戸を閉ざすか? 改めるぞ。中にいる者を、私の前へ出せ」
夫は戸から手を離した。広い肩の横から、石の廊下が見える。白い布を掲げた聖女さまの目がそちらへ向く。エムリクは戸口を空けて、静かに告げる。
「……お入りください。ただ、奥に熱のある者が寝ております」
「熱……? わたくしの布を、そのお部屋へ持っていくの?」
私は一歩、廊下の側へ寄る。
「ええ。熱の者の寝台は、診療の間のいちばん奥ですわ。殿下、ご案内いたしましょうか? 聖女さまも、祝福の布をお持ちですもの」
白い布が、聖女さまの手元へ引っ込んだ。祝福は、皆に等しく。ただし、戸口まで。殿下は敷居から一歩引き、袖で口元を覆う。夫が診療の間へ体を向けると、殿下の声が低くなった。
「……いい。今朝は改めぬ。護衛、戻れ」
通りのざわめきが戸口まで届く。聖女さまは敷居の上で、殿下に顔を寄せた。こちらへ向けていた口元の笑みはそのままに、声だけが低くなる。
「あの子なら、どこかで泣いているわ。可哀想に。口の軽い子だったもの」
廊下へ目を返すと、奥の柱の陰に、頭巾の下の赤い髪がある。敷居の低い声は、石の廊下をまっすぐ奥まで通った。殿下の立つ戸口からは、柱の影になって見えない。診療の間から出てきたナノンは、頭巾を掴んだまま動かない。私は患者の名を呼ばず、扉の内へ戻る。戸板に置いた掌の下で、木はまだ冷たい。馬車へ向かった殿下が、踏み台で振り返った。
「五日後の祝福式に、処刑人夫婦も末席に連なれ」




