3. 九つの鐘
祈りの間の壇に殿下、祭壇の前に白い布を持つ聖女さまがいる。祭壇の脇では神官長が開いた神殿の書を確かめていた。高い窓から落ちる光に、香の煙が白く筋を引く。後ろの列には、王宮の使用人たちが並ぶ。
ナノンは三日前の朝、熱が下がり、礼だけ言って出ていった。私たちの三つ隣まで、誰も座らない末席。空いた席には光が落ち、囁きだけが背中に当たる。夫が長椅子の端を空け、私を見る。
「……ここです。あなたは、通路の側に」
「ええ。ずいぶん広く空いておりますわね。そんなに空けていただいても……」
項で結い直した栗色の髪に手をやる。あちらの列で、また囁きが重なった。夫は席の幅を確かめ、私の裾が床につかない位置を示す。
「……足元は、段になっています。立つときは、気をつけてください」
並んで座ると、夫の大きな手は膝の上で動かない。空いた席の幅より、その手の幅を見ていた。
聖女さまの白い布が、人々の頭に触れる。末席まで届く声は、布よりもやわらかい。
「健やかにお過ごしくださいね。苦しむ方をお忘れにならず、その声に耳を傾けてくださいませ。よき心で、またこの祈りの間へおいでください」
式の終わり、神官長が書の前へ戻った。月に一度の祝福式では、最後に偽りを告げる問いが三度ある。殿下が壇から私を指す。
「罪人アルメル。処刑人の妻として、聖女の前へ。跪いて、祝福を受けよ。お前にも慈悲は与えられる。慈悲を拒むことは許さぬ」
「聖女さまの前へ伺うお言葉は、承りましたわ。跪くかどうかは、前へ出てから決めますけれど」
通路へ出る。磨かれた床に靴音が響いた。高い天井から返る音が、私の足を追ってくる。聖女さまの白い布の前で、膝を伸ばしたまま止まる。神官長が三度目の問いを言う。
「告げる偽りはないか? ここで告げた偽りは、神殿の書に記す。告げた者の罰は軽くなる」
後ろの列で頭巾が動く。布を巻いた右手を抱え、ナノンが長椅子の間を出てきた。そばかすの頬は強張り、痩せた肩だけが頼りなく揺れる。
「お待ちください! 私、告げたいことがあります。今、聞いてください。書に記していただきたいことが、あるんです」
神官長が、祭壇の脇を空ける。
「こちらへ。急がずに、聞こえる声で告げなさい。今は、お前の言葉を聞く」
ナノンは包帯を押さえた。唇は震えている。
「私は、偽りを申しました。九つの鐘のとき、私は控えの間で、湯を沸かしておりました」
祈りの間がざわめく。ナノンが壇を見上げると、殿下の声が高くなる。
「侍女の思い違いだ。時刻を取り違えたのだろう。宴は長かった。鐘を一つ間違えただけだ。皆を騒がせるな」
殿下の手が右の耳に触れる。私はその指を見た。耳の奥では、詮議の最後の証言が、一字一句、同じ声で始まる。
〈九つの鐘のとき、私はこの目で見た。アルメルが聖女に杯を手渡すのを〉
続けて、四人の鐘を揃えた殿下の言葉をなぞる。切れ長の目を細め、壇へ顔を上げた。口元だけは、よく笑える。
「殿下は、四人の言葉は九つの鐘で揃っている、と仰いましたわね? 侍女の鐘だけを、お改めになりますの?」
返事はない。殿下の手が右の耳を離れ、壇の縁を握った。私の両手は、裾の横で握ったまま。聖女さまがナノンへ白い布を伸ばす。
「可哀想に、ナノン。どこかで頭でも打ったのではなくて? わたくしのそばへいらっしゃい。そんなに震えては、つらいですもの。休んで、よくお考えになって?」
「打っておりません。お願いです、時刻だけにしないでください。私は、偽りを申しました。鐘を間違えたのではありません。大広間に、いなかったんです」
包帯の右手が、白い布の手前で下がった。聖女さまの布は、伸ばされたまま。神官長が筆を取る。
「告げられた偽りは、神殿の書に記します。侍女は控えの間にいて、大広間を見ていなかった、と」
ナノンは肩をすぼめ、筆の先を見つめた。
「はい。私が言ったことです。どうか、そのとおりに書いてください。見たという言葉を、取り消してください」
筆が書の上を滑る。殿下はナノンから目を外し、末席へ向いた。
「処刑人。お前の家で、何を吹き込んだ」
長椅子のそばでエムリクが立つ。膝に置いていた大きな手は、体の横へ下がる。
「処刑人の家には、吹き込む口がございません」
後ろの列で、笑いをこらえる音がした。夫の顔は、少しも動かない。私も夫も、患者の名は言わない。書の上の筆だけが、さらさらと動き続ける。
神官長に一礼して、白い布の下へは入らずに戻る。夫が椅子の端を空け、声を落とす。
「……こちらです。足元の段を」
「覚えておりますわ。段のことも、今聞いた言葉も。ふふ、跪けと言われたり、段に気をつけろと言われたり。私の膝も、ずいぶん忙しいこと」
座ってから、掌を膝の下へ隠した。指の跡は、布を隔てても痛い。膝は震えていない。その下の手を、ほどくことだけができない。
◇
夕方、台所の机に夫が膏薬を置いた。フィデールは湯の支度をしている。椅子を引く私の手を、エムリクが見る。
「……その手を、見せてください」
「今朝の包帯は、もう外しておりますわ。擦り傷も塞がっていますのに。今度は、手の隠し方まで診てくださいますの?」
開いた掌には、自分の爪の跡が四つずつ残る。夫の指が、跡の外側をなぞった。押さえない。窓から入る夕方の光に、夫の指の影が私の掌へ重なる。
「……爪の跡は、怒っていた人の手です。握ったまま、立っていたのですね」
「ええ。鐘を間違えた、ですって。なら、私が跪かされたことも、間違いにしてくださればよいのに。……痛くありま――」
いつもの言葉が途中で止まる。膏薬を広げる細い指先の下で、掌の力が抜けた。膏薬の匂いが、近い。夫は指先を止める。
「……ここも、痛みますか?」
「ふふ。ええ、そこもですわ。エムリク様は、ずるいですわね。私の返事より、手の返事を先に聞いてしまうんですもの」
開いた掌を預けても、「そばにいて」が言えない。痛むところなら、指で示せた。布を巻く指が離れても、私の手は机に残る。フィデールが、湯の横へ手紙を置く。
「奥様、旦那様のお祖母様からでございます。旅先からの便りが、今朝、届いております」
〈明日、帰る。嫁の顔を見せな ブルンヒルト〉
読み終えた手紙を机に置いた。夫が、私の手からその字へ目を移す。
「……祖母です」
祖母の手紙の「嫁」の一字を、巻かれたばかりの手でそっと押さえると、夫の耳がまた赤くなる。




