37話 王の咆哮
獣は全てにおいての王だった。満たされ、我欲のまま力を振るっていた。
だが、今は違う。
獣は、怒りを抱いていた。人が己の縄張りを踏み荒らし、子分を殺したから。
獣は、飢えていた。子分が減ったせいで、肥え溜まっていた魔力も肉も、減っていったから。
獣は、探していた。その原因である人を。その目と、その鼻で。
* * *
『アオォォォォォォォン!!!』
一瞬、静まったと思った途端に、それを気に入らんと打ち破る咆哮が響き渡った。
それも近くで。
ヴェナの言った通り何かがいる。間違いなく私達に近付いてきてる。
「セイル…!」
「っ…皆は先に行って救援を!」
「はっ!セイルお前!それは…」
それは、大幅な減点を意味する行為。
「何か起きてからじゃ遅いんだ!」
「分かった」
セイルは、「皆は」と言ったのだ。それが意味するのは自分一人で残ろうとしている、そういうことだ。
その決意を無下になんて出来るわけがない。
「シュラトルはヴェナをお願い。私が殿を務めるから────」
言い終えるより、先に。
────視界が黒に染まった。黒く、黒く、黒く。
『ァァ…』
真っ暗で、何も見えない中。獣の舌舐りが聞こえた。
耳を塞ぎたくなるような、醜く、欲に塗れた音。
思考が回らない。今、何が起きているのか分からないのに受け入れてしまいそうになる。
考えなきゃ、考えないと、私には何も出来ないのだから…
「────っ、整列!!!」
光。黒を塗りつぶすほどの、強烈な光が迸った。
それと同時、眼前の…巨大な存在がようやく目に入った。
『ァァゥ…ァァ?』
見た目は、ハングリーウルフがより大きくなっただけに見えた。真っ黒な毛に、血走った赤い目。そして欲を表す牙。
ただ…その獣は、他のハングリーウルフには無い圧倒的な『格』を感じさせた。
「皆!早く!」
「っ…」
セイルの言葉で意識が切り替わる。
強大な獣から目を離し、直ぐに帰路へ────
* * *
あれはマズイ。相手にしちゃダメな類のものだ。少なくとも数百以上の命は優に奪って、糧にしている。
「ルナ…!大丈夫…か?」
「うん、私は大丈夫…」
あの強敵を前に、逃げることしか選べない。その現実が悔しく思える。もし力を使ったならば、打倒も不可能では無いのだが…
「入口見えてきたよっ!」
レイナが指を指す。その方向から光が漏れ出た。
安堵した。生きてここを出れそうなことに。
しかし、同時に不安も思い出して来た…
「思い、出して?」
自身の思考に違和感を持った。なんだ、この言いようのない感覚は。
さっきの、正面にあいつが現れた時のは恐怖だ。それは分かる。今は安堵。でも、どれでもない────
無慈悲なまでの喪失感。なんで?なんて、言うまでもないじゃないか。
「なんで気付かなかった…!」
いつの間にか。いつの間にかだ。これはきっと、仕方がないことではある。でも、納得してやるものか。
「ルナっ!?」
「ごめん…!ちょっと戻る!」
相対した時には既に、術中にハマっていたのだ。
セイルが…危ない。
* * *
セイルは全速力で森の中を駆け巡っていた。先程までの狩りの途中、自身に大きな怪我も何も負わなかったのは不幸中の幸いだと言えた。
『ゥゥゥゥゥ!!!』
巨大な足音が、振動が、地から足へと伝ってくる。
改めて自身の置かれている状況を理解し…理解した上で無謀だったかもしれない。そう思えてくる。
「確かこっちに…!」
セイルは宛もなく走っていた訳でなく、ある場所を目指している。
このままではきっと捕まって食われてしまう。だから、反撃に出なければならない。
ほんの一瞬にも思えた、数分の追いかけっこの後、ようやく目的地が見えてくる。
「良かった…!まだ、残ってる!」
そこは先程、ルナが罠を張り巡らせた開けたところだ。泥濘を飛び越えながら、中央へ向かう。
『ァァァァァ!!!』
遂に追い付かれた。もう振り返れば目の前にあの大狼がいることだろう。
セイルなど、一瞬にして屠られてもおかしくない。あれを前にしたら、どんな人もきっとそうなる。だが…
諦めるのは、勇者じゃない。
『ゥッ!?』
泥濘に触れ、落とし穴の残骸に躓いて体勢が崩れる。最初にして最後のチャンスだった。
セイルは全身全霊を持って剣を構え────
振った。
世界から音が消えたように感じた。それほどに集中し、極限の高みに至っている。
放つは魔を切り裂く波動。正確無比な一撃が、大狼を打ち砕くのだ────
『アォォォォォン!!!』
「なっ…」
あと少し。本当に、あと少しだった。刃が触れるその一瞬の間。
大狼は立ち上がり叫んだ。同時に、初めて姿を見せた際の黒い靄を放って剣を食い止めた。
あれが何か…などと、既に議論する余地もない。セイルはたった今、逆転の芽を失った。
本当の意味で、されるがままの餌に成り果てたのだ。
「クソっ…」
『ゥゥゥ』
すぐに逃げないといけないのに、己への苛立ちと無力さに呆れて、折れそうになっている。
これでは勇者の夢など到底叶うわけもない。ならばもういっそ────
大狼の爪が、セイルに当たるその直前。
「セイル!」
いつもの彼を呼ぶ声が、意識を覚醒させた。




