【歴史】奴隷・身代金【戦国】
【問い】 戦国時代に関する本を読むと、戦争捕虜を奴隷にしたり身代金を要求したとあるます。
ただ奴隷にしたとはあるものの、奴隷の話はほぼ出て来ません。
身代金を要求したというのも、具体的にどこでどう交渉し取引されたのかという話はあまり出て来ません。
具体的な事例を挙げて下さい。
【回答】 Geminiさん
戦国時代の生々しい捕虜ビジネスの実態ですね
教科書にはあまり載りませんが
具体的な記録はしっかり残っています
当時は捕虜にすることを
「生捕り(いけどり)」や
「人買い(ひとかい)」と呼びました
いくつか具体的な事例を挙げますね
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乱取りと奴隷貿易の事例
最も有名なのが
上杉謙信の軍勢が関東へ出兵した際の記録です
1560年代の関東出兵の際
上杉軍の兵士たちは
現在の栃木県や群馬県あたりで
一般の領民を大量に生捕りにしました
この時
春日山城の下に臨時の市場が開かれ
捕らえられた人たちが売買されました
価格の記録も残っており
1人あたり「20文から30文」ほどでした
これは当時の価値で
お米数キロ分
あるいは現在の数千円程度という
信じられないほどの安値で取引されていました
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身代金交渉の具体的な事例
捕虜の家族が身代金を払って
買い戻す手続きを「請戻し(うけもどし)」と呼びました
1566年に松平家(徳川家康の軍)が
東三河の牛久保城を攻めた時の記録が残っています
この戦いで捕虜になった人々の身代金交渉は
戦場近くの寺院が仲介役となりました
具体的な交渉の流れはこうです
まず
捕虜の家族が仲介者(僧侶など)に頼み
敵方の武将に「いくらで返してくれるか」を交渉します
金額が決まると
家族はお金を用意して指定の場所へ持参します
この時の三河の事例では
「銭4貫文」
現在の価値で数十万円程度が支払われ
無事に家族のもとへ帰されました
交渉の場所は
戦場近くの「国境の境目」や
中立地帯である「寺や神社の境内」が使われるのが一般的でした
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なぜその後 奴隷の話が出てこないのか
これには理由が2つあります
1つ目は
多くが「国内の労働力」として
農村や都市に吸収されていったためです
特別な身分として隔離されたわけではなく
下男や下女
あるいは小作人として生活に組み込まれていきました
2つ目は
九州などの沿岸部では
海外のポルトガル商人に売られて
日本国外へ連れ出されてしまったケースが多かったためです
国内の記録から姿を消したのはこのためです
このように
戦国時代の戦争は
大名同士の領土争いであると同時に
兵士たちにとっては
「人間を略奪して一攫千金を狙うビジネス」
という側面が非常に強いものでした
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【問い】
>多くが「国内の労働力」として
>農村や都市に吸収されていったためです
逃げたりしないのは結局どこにいても、貧しい生活がそう変わらなかったということなのでしょうか
【回答】 Geminiさん
おっしゃる通りで
当時の社会構造から見ると
「逃げても行く場所がない」
というのが残酷な現実でした
それには当時の生きる厳しさが深く関係しています
主な理由は4つあります
1 どこに行っても同じ、むしろ餓死のリスクがある
当時の一般庶民にとって
一番の関心事は「今日食べるものがあるか」でした
戦乱で家や田畑を失った人にとって
奴隷(下男・下女)として買われた先であっても
「毎日食事が与えられる」ということは
餓死から免れる唯一の手段でもありました
逃げ出したところで
自分の土地も財産もないため
野垂れ死にするか
再び別の野盗や兵士に捕まる可能性が非常に高かったのです
2 強固な「村の社会」と人別管理
戦国時代の村や町は
部外者に対して非常に排他的でした
身元のわからない人間が突然やってきても
怪しまれて追い返されるか
最悪の場合は「落ち武者狩り」のように
捕らえられて役所に突き出されるか
再び売られるのがオチでした
当時は現代のように
「別の街へ行って新生活を始める」
という自由な移動ができる社会ではありませんでした
3 「身代金」が払えないという現実
連れていかれた先で
「身代金を払えば解放する」と言われても
貧しい農民の家族には
数貫文(数十万円)もの大金は払えません
家族が買い戻しに来てくれない以上
その土地で働き続けるしか生きる道はありませんでした
4 「譜代下人(ふだいげにん)」という存在
実は戦国時代以前から
日本の農村には「下人」と呼ばれる
実質的な奴隷階級がすでに存在していました
彼らは主人の家で働き
衣食住を保障される代わりに
従属する生き方をしていました
戦争で捕虜になり
新たな主人のもとへ送られた人々も
この既存の「下人」の仕組みにそのまま組み込まれたため
周囲の社会からも「そういうものだ」と受け入れられ
逃亡を防ぐ監視の目も厳しかったのです
まとめますと
自由を求めて逃げ出すよりも
「生きていくために、そこに留まって働くしかなかった」
というのが当時の底辺に生きる人々の実態でした




