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【歴史】関東公方【室町】

【問い】 室町時代の関東は、関東公方は、足利基氏の関東十カ国を統治から、

鎌倉公方・古河公方・堀越公方・小弓公方など移動分裂しました。


【回答】 Geminiさん

室町時代の関東は、本国の京都(室町幕府)とは別に、独自の権力機構が作られたことで、非常に複雑な分裂と対立の歴史をたどりました。


その流れを分かりやすく順を追って解説します。

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始まり:鎌倉府と関東公方

初代将軍の足利尊氏が、関東を統治するために「鎌倉府」を設置しました。


そのトップ(長官)に任命されたのが、尊氏の息子である足利基氏です。

彼が初代の関東公方(または鎌倉公方)と呼ばれます。


管轄したのは、伊豆・甲斐を含む関東10カ国です。


関東公方を補佐する副大臣のようなポジションとして、代々上杉氏が就任する「関東管領」が置かれました。

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幕府との対立と崩壊(享徳の乱)

当初は京都の幕府を支える存在でしたが、代を重ねるごとに「関東公方」と「京都の将軍」、そして公方を支えるはずの「関東管領(上杉氏)」の3者の間で、主導権争いが激化します。


4代目の足利持氏のとき、将軍や上杉氏と激しく対立し、幕府軍に攻め滅ぼされました(永享の乱)。


その後、持氏の息子である足利成氏が関東公方に復帰しますが、再び上杉氏と衝突します。

成氏が関東管領の上杉憲忠を暗殺したことで、関東全体を巻き込む大乱(享徳の乱)が勃発しました。

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激動の移動と分裂

この享徳の乱をきっかけに、関東公方は各地へ移動し、分裂していくことになります。


1. 古河公方(ふるかわくぼう)

幕府や上杉氏に鎌倉を追われた足利成氏は、下総国の古河(現在の茨城県古河市)に本拠地を移しました。

これ以降、彼の家系は古河公方と呼ばれます。

関東の武士たちの多くを味方につけ、上杉氏と激しく戦いました。


2. 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河へ移った成氏に対抗するため、京都の幕府は新たな関東公方として、将軍の兄弟である足利政知を関東に送り込みました。

しかし、政知は成氏側の勢力に阻まれて鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に留まりました。

これが堀越公方です。

事実上、関東に2人の公方が並び立つ異常事態となりました。


3. 小弓公方(おゆみくぼう)

その後、古河公方の社内で内紛が起こります。

古河公方の血を引く足利高基と、その弟の足利義明が対立しました。

弟の義明は、下総の小弓城(現在の千葉市)を拠点にして自立し、小弓公方を名乗りました。

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その後の結末

このように4つに分裂した公方家ですが、戦国時代が進むにつれて急速に衰退していきます。


堀越公方は、伊豆に侵攻してきた北条早雲(伊勢宗瑞)によって滅ぼされました。


小弓公方は、勢力を拡大する小田原の北条氏綱と戦って敗死し、滅亡しました。


本家である古河公方も、次第に小田原北条氏の傀儡(コントロール下)となり、最終的に豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏とともに歴史の表舞台から姿を消すことになります。


このように、室町時代の関東は、本国(京都)からの自立化、内紛、そして新興勢力である北条氏の台頭によって、めまぐるしく拠点を変えながら分裂していきました。


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【問い】 関東管領職は山内上杉家が代々引き継ぎました。

関東公方と関東管領の任命・指揮系統、役割分担についてまとめてください


【回答】 Geminiさん

室町時代の関東における関東公方と関東管領について、任命と指揮系統、そして役割分担を整理しました。


関東公方の任命と指揮系統について

関東公方は室町幕府の将軍によって任命されます。


初代は足利尊氏の息子である足利基氏です。

関東十カ国を統治する鎌倉府の長官として置かれました。

幕府の出先機関という位置づけでしたが、次第に京都の室町幕府と対立するようになります。


その後、鎌倉公方は古河公方、堀越公方、小弓公方などへ分裂を繰り返すことになりました。


関東管領の任命と指揮系統について

関東管領は関東公方の補佐役として、関東公方によって任命されます。

ただし、実質的には室町幕府の意向も強く反映されていました。

山内上杉家が代々その地位を世襲して引き継いできました。

指揮系統としては関東公方の命令を受ける立場にあります。


一方で、京都の幕府と直接連絡を取り合うことも可能であったため、時には公方に対立する独自の勢力としての側面も持ち合わせていました。


両者の役割分担について

関東公方は関東統治の最高責任者としての役割を担いました。

関東十カ国の軍事や行政を統括し、政治的な決定を行います。

鎌倉府の長として、地域における権威の象徴でもありました。

関東管領は実務面での補佐と調整役を担いました。

関東公方のもとで、実際の行政や軍事の指揮を行います。


さらに、京都の室町幕府と関東公方の関係が悪化した際には、その間の調整役としても機能しました。

つまり、関東公方が全体の方針や権威を担い、関東管領が実務や幕府とのパイプ役を務めるという関係性が基本となります。


この体制が後に分裂し、関東管領の上杉氏が権力を強めていく中で、公方と管領の関係も大きく変化していくことになります。


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【問い】 ここでいう関東十カ国は下記のうちどこ

武蔵、相模、安房、上総、下総、上野、下野、常陸

伊豆

甲斐、信濃、越後


【回答】 Geminiさん

質問ありがとうございます。


ここでいう関東十カ国についてお答えします。

鎌倉府が管轄していた関東十カ国は

現在の関東地方にあたる八カ国に

甲斐と伊豆を加えた十カ国を指しています。


ご提示いただいた中から

関東十カ国にあてはまる国を挙げると

以下の十カ国になります。


常陸 茨城県

上野 群馬県

下野 栃木県

上総 千葉県中央部

下総 千葉県と茨城県の一部

安房 千葉県南部

相模 神奈川県

武蔵 東京都と埼玉県と神奈川県の一部

伊豆 静岡県東部

甲斐 山梨県


一方で

越後と信濃は

通常関東十カ国には含まれません。

ただし信濃については

室町時代の初期の短期間のみ

例外的に鎌倉府の管轄下にあった時期が存在しました。

当時の関東の広大な地域が

どのように統治されていたかのイメージの参考にしてください。


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【問い】 伊豆は駿河に含まれなかったのか


【回答】 Geminiさん

伊豆国は独立した国であり、駿河国には含まれませんでした。


古くから「伊豆国」と「駿河国」はそれぞれ別の国として存在しています。


かつて飛鳥時代の頃には、伊豆が駿河の一部だった時期もありました。

しかし、西暦680年に駿河国から伊豆の地域が切り離されて独立しました。

それ以降、室町時代も含めて、伊豆と駿河は明確に区別されています。


室町時代の行政区分である鎌倉府の管轄(関東十カ国)を見ても

伊豆国は鎌倉府の管轄に含まれていましたが

駿河国は鎌倉府の管轄ではなく、室町幕府が直接統轄する国でした。


地理的にも、伊豆半島は鎌倉のある相模国に隣接しています。

そのため、関東を統治する鎌倉府にとって

伊豆国は非常に重要な拠点として組み込まれていました。

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