7 悟りヨハンナ
午前二時四十一分。
ヴィルテ・コントリマイテは、露天風呂から上がった。
脱衣所に戻ると、身体が急に重くなったような気がした。
温かい。
眠い。
そして、喉が渇いた。
髪を乾かし、下着を着け、服を着る。靴下を履いて、最後に灰色のマフラーを首に巻こうとして、やめた。
ここは暖かい。
マフラーを鞄にしまった。
鏡を見る。
頬が赤い。
髪もいつもよりふんわりしている。
「……」
ちょっとだけ、可愛くなった気がした。
気のせいかもしれない。
ヴィルテは鞄を背負い、脱衣所を出た。
屋上の通路は、露天風呂へ向かうときほど寒くなかった。
もちろん、外は相変わらず猛吹雪だった。
強化ガラスの向こうを、白い雪が猛烈な勢いで横切っていく。
ごう。
風が唸る。
露天風呂の上に張り出したガラス屋根には、雪が次々とぶつかっていた。
張り付く。
溶ける。
流れる。
また張り付く。
ヴィルテはしばらく、それを眺めた。
「……良かったな」
もう一度入りたい。
今度は晴れた日に。
屋上には、露天風呂のほかにもいろいろなものがあった。
雪を被った屋上菜園。
ガラス張りの温室。
ベンチ。
小さな休憩スペース。
それから、カフェのような施設もある。
今は閉まっているらしく、店内の照明は落ちていた。
窓際に椅子が並んでいる。
晴れた日には、ここでコーヒーを飲みながら街を眺められるのだろう。
ヴィルテは窓に近づいた。
何も見えなかった。
雪しか見えない。
「……また来よう」
そう呟いて、階段へ向かった。
◇
四階。
ヴィルテは階段を下りながら、ふと思い出した。
そういえば。
さっき、なんかいた。
浮いてる人。
「……」
いたよね。
確かに。
ヴィルテは階段の途中で立ち止まった。
四階の廊下を覗く。
照明は薄暗い。
窓の外は白い。
そして。
いた。
「……」
浮いている。
相変わらず。
大きな窓の前で、女が坐禅を組んでいた。
床から一メートルほど離れたところ。
長い髪。
細い肩。
18歳くらいの、西欧系。
どこかで見たような後ろ姿。
ヴィルテは手すりに身を寄せた。
そ……。
と、顔を出す。
女は目を閉じていた。
穏やかな顔だった。
悟りきったような。
実際に悟っているのかどうかは知らない。
そして。
回っていた。
「……」
ゆっくりと。
坐禅を組んだまま。
縦に。
前転するように。
くるん。
くるん。
くるん。
ヴィルテは目を細めた。
なんだあれ。
女は目を閉じている。
表情も変わらない。
くるん。
くるん。
くるん。
回転するたびに、長い髪がふわりと揺れる。
ヴィルテは、しばらく眺めていた。
すると。
女が動き始めた。
「……え」
回転しながら。
ゆっくりと横へ移動していく。
窓際から廊下の中央へ。
廊下の中央から、反対側へ。
そして、また窓際へ。
円を描いている。
自転しながら。
公転している。
「…………」
ヴィルテは後ずさった。
なんだあれ。
なんなんだあれ。
そもそも、あの後ろ姿。
誰かに似ている。
誰だったっけ。
長い髪。
細い肩。
気だるそうな雰囲気。
いや、今は気だるそうというより、悟りきっている。
でも。
あれ。
ヨハンナさんに。
「……」
ヴィルテは階段を下りた。
早足で。
できるだけ音を立てずに。
そして三階に着いた。
◇
「さっき四階見に行ったらさ」
声がした。
廊下の奥。
若い女が二人、ソファに座っていた。
「うん」
「うちの外務大臣がなんか浮いてたんだよね」
「うん」
ヴィルテは足を止めた。
外務大臣。
「くるくる回り始めてさ」
「うん」
「怖いなー、怖いなーって見てたんですよ」
「うん」
「そしたら、今度は公転し始めたんだよね」
「うん」
「思い出したんだよね」
「うん」
「七歳の頃、インフルにかかったんだよ」
「うん」
「その時見た夢にそっくりだなって」
「うん」
「……」
ヴィルテは二人を見た。
女たちはこちらを見ていない。
片方は毛布にくるまり、もう片方は紙カップを両手で持っている。
それだけだった。
会話は続いている。
「熱が四十度くらい出てさ」
「うん」
「天井が回って見えたんだよね」
「うん」
ヴィルテは階段へ向かった。
急いで。
今度は音を立てずに、なんて考えなかった。
二階。
誰もいない廊下を抜ける。
一階。
階段を駆け下りる。
暖かい空気。
コーヒーの匂い。
暖炉の火。
低い話し声。
ゲームの音。
ヴィルテは立ち止まり、部屋中を見渡した。
いた。
ヨハンナだ。
ゲームしてる。
浮いてない。
回ってない。
寝そべってる。
「……」
良かった。
何が良かったのかはわからない。
直ぐ側では、ダリウスが酔いつぶれていた。
「うぅん……大人にはいろいろあんだよぉ……」
誰に言っているのかわからない。
寝言だった。
ヴィルテはヨハンナのところへ駆け寄った。
「ヨハンナさん、ヨハンナさん!」
「静かにしなよ。みんな寝てるよ」
「すみません。そうじゃなくて、四階で、なんか、浮いてて、くるくる回ってて、そしたら、ぐるんぐるんって」
「落ち着きなよ」
「っ、すいません」
ヴィルテは息を整えた。
ヨハンナはスマートフォンを伏せた。
「なにがあったんだい。露天風呂は良かったかい?」
「ええ、最高でした」
「ふっふっふ、そうだろう?」
「ええ」
「シャンプーもボディーソープも安物だけど、香りにはこだわってるんだよ」
「そうなんですね」
「いい匂いだろう?」
「はい。あの、それで」
「うん」
「服を着替えて、戻ろうとしたんです」
「ほう」
「そしたら、四階で、ヨハンナさんが、座ってて、目閉じてて、なんだっけ、インドのあれ、落ち着く呼吸法みたいな」
「瞑想かい?」
「それです。それやってて、そしたら、急に浮き始めて」
「ふむ」
「それで、くるくるって縦に回り始めたんです。そしたら、今度は前回転が後ろ回転になって、と思ったら右とか左に回り始めて、そしたら今度は、なんか、ぐるんぐるん回り始めたんです。地球が太陽の周りを回るみたいに」
「なるほどねぇ」
「なんなんですかあれ」
ヨハンナはヴィルテを見た。
少しだけ、目を細めた。
「見ちゃったんだねぇ」
「……え」
「あれはねぇ、悟りヨハンナだよ」
「……え?」
「わたしの分身だよ」
「え、どういうこと?」
「言葉のままだよ」
ヨハンナは立ち上がった。
スマートフォンをポケットにしまう。
「来なよ」
「え、はい」
◇
再び四階。
ヴィルテはヨハンナの後ろを歩いていた。
階段を上がる。
三階を通る。
さっきの女たちは、まだ話していた。
「で、その時さ」
「うん」
「天井からおばあちゃんが降りてきてさ」
「うん」
ヴィルテは聞かなかったことにした。
四階。
廊下に出る。
いた。
浮いている。
回っている。
相変わらず。
坐禅を組んだまま。
自転しながら、公転している。
ヨハンナはそれを見上げた。
「ごらん」
「……はい」
ヴィルテは見た。
女の顔。
ヨハンナにそっくりだった。
というか、ヨハンナだった。
隣にいるヨハンナと、同じ顔。
同じ髪。
同じような体格。
ただし、こちらは浮いている。
回っている。
そして、目を閉じている。
穏やかな顔で。
「……」
ヴィルテは隣のヨハンナを見た。
ヨハンナは、回転するヨハンナを見ていた。
「三」
呟いた。
「……?」
「二」
なんのカウントだろう。
「一」
そして。
ぴかー。
「……」
光った。
琥珀色に。
坐禅を組んだヨハンナの全身が、柔らかな琥珀色の光に包まれた。
廊下が明るくなる。
壁が照らされる。
床に光が映る。
窓の外では、猛吹雪が続いていた。
白い雪。
琥珀色の光。
そして、その中央で。
ヨハンナが回っている。
自転しながら。
公転しながら。
目を閉じて。
悟りきったような穏やかな顔で。
くるん。
くるん。
ぐるん。
ぐるん。
「…………」
ヴィルテは何も言わなかった。
言えなかった。
ヨハンナは満足そうに頷いた。
「わかったかい」
なにが?
「……はい」
「じゃあ、行こうか」
「はい」
ヨハンナは踵を返した。
ヴィルテもついていく。
背後では、琥珀色の光がまだ廊下を照らしていた。
◇
午前二時五十八分。
一階に戻った。
ダリウスはまだ寝ていた。
「うぅん……そりゃあ、そうなんだけどよぉ……」
今度は誰かに反論しているらしい。
ヨハンナは元の場所に寝そべり、スマートフォンを取り出した。
ゲームを再開する。
ヴィルテはその隣に座った。
「……」
気になることはいくらでもあった。
なぜヨハンナが二人いるのか。
分身とは何なのか。
なぜ坐禅を組みながら浮いているのか。
なぜ回っているのか。
なぜ自転だけでなく公転までするのか。
何を中心に公転しているのか。
なぜ光るのか。
なぜヨハンナは光るタイミングを知っていたのか。
悟りヨハンナとは何なのか。
あれが悟りヨハンナなら、お前は何ヨハンナなのか。
「……」
ヴィルテはヨハンナを見た。
ヨハンナはゲームをしていた。
いつも通り。
何事もなかったかのように。
ヴィルテは口を開いた。
閉じた。
そして、スマートフォンを取り出した。
「……もう一回やろうかな」
「ふっふっふ、いいねぇ」
ゲームを起動する。
いつもの画面。
いつもの音楽。
いつものキャラクターたち。
ヴィルテは少し安心した。
聞かなかった。
聞かない方が良いこともある。
カラディシアに来て二週間。
ヴィルテ・コントリマイテは、そんなことを学んだのだった。




