8 降りてくる怪異
午前三時十二分。
ヴィルテはスマートフォンを見つめていた。
ゲームをしていた。
正確には、ゲームをしているふりをしていた。
なぜなら。
いたからだ。
「……」
階段のところに。
四階で浮いていた女が。
降りてきた。
歩いて。
普通に。
浮いていない。
回っていない。
光ってもいない。
それがかえって怖かった。
奴は、首をゆっくりと回すと、こちらにいるヨハンナを見て、ヴィルテを見た。
ヴィルテはびくっと肩を震わせた。
スマートフォンを膝に置く。
腰を少し浮かせる。
膝を曲げる。
足の裏を床につける。
いつでも逃げられるように。
猫が見知らぬ犬を警戒するときのように。
目だけは、女から離さない。
女が近づいてくる。
こちらへ。
まっすぐ。
ヴィルテは息を止めた。
「やあ、悟りヨハンナ。調子はどうだい?」こちらのヨハンナが言った。
怪異が口を開いた。「いやぁ、悟ったねぇ」
「悟れたかい」
「悟れたねぇ」
「座りなよ」
「ふっふっふ」
「ふっふっふ」
「…………」ヴィルテは二人を見比べた。
同じ顔だった。
同じ声だった。
同じ笑い方だった。
違うのは、片方がさっきまで公転していたということだけだった。
「お菓子はないのかい?」怪異が周囲を見渡した。
「自分で取ってきなよ」
「ふっふっふ。おや、今日はカップシリアルの日なんだねぇ」
「まだ残ってるかな」
「見てくるよ」悟りヨハンナと呼ばれた怪異は歩いていった。
カップシリアルの置かれた方へ。
ヴィルテは、その後ろ姿を目で追った。
普通に歩いている。
足が床についている。
それだけで少し安心した。
「……」
こちらのヨハンナはゲームに戻った。
ヴィルテはこちらのヨハンナを見た。
それから、カップシリアルの方を見た。
悟りヨハンナが紙カップを手に取っている。
シリアルを入れている。
どうやら、食べるらしい。
「……ヨハンナさん」
「なんだい」
「あなたは何ヨハンナなんですか」
「ゲーミングヨハンナだよ」
「ゲーミングヨハンナさん」
「なんだい」
「あの人、食べるんですか」
「そりゃあ食べるさ」
「……」
「悟ったからって、お腹が空かなくなるわけじゃないからねぇ」
「……そうですか」
ヴィルテは頷いた。
悟りヨハンナが、カップを持って戻ってくる。
中身はコーンフレークだった。
ほとんどコーンフレークだった。
その上に、チョコレート味のシリアルが少しだけ載っていた。
「ふっふっふ、まだあったよ」
「良かったねぇ」
「牛乳がなかったねぇ」
「そうかい」
「豆乳にしたよ」
「なるほどねぇ」
「…………」ヴィルテは、そっと腰を下ろした。もう逃げなくてもよさそうだった。たぶん。
悟りヨハンナは隣に座った。紙カップにスプーンを入れる。さく。さく。食べ始めた。
「……」ヴィルテは思った。この人は。さっきまで。自転しながら公転していた。そして今。コーンフレークを食べている。その間に、何があったのだろう。悟りか。空腹か。悟りなのか。ヴィルテにはわからなかった。
「美味しいかい?」ゲーミングヨハンナが尋ねた。
「ふっふっふ」悟りヨハンナは頷いた。「悟ったねぇ」
「それは良かった」
ヴィルテはスマートフォンを手に取った。
ゲームの画面を開いた。
敵のチャンピオンが近づいてきていた。
撃った。
倒された。
「……」
こっちは何も悟れなかった。
悟れましたか?




