9 お茶漬けで悟る
午前三時二十三分。
悟りヨハンナは、空になった紙カップを覗き込んでいた。
「……」
傾ける。
底を見る。
もう一度傾ける。
何も出てこない。
「おかわりはできないのかい」
「一人一杯までだよ」
ゲーミングヨハンナが答えた。
「そうかい……」
悟りヨハンナは、しゅんとした。
ヴィルテはそれを見ていた。
つい二十分ほど前まで、四階で自転しながら公転していた人物である。
全身を琥珀色に発光させ、悟りきったような穏やかな顔で空中を回っていた。
今はシリアルのおかわりができなくて落ち込んでいる。
「……」
ヴィルテは、何も言わなかった。
言わないことに慣れてきた。
悟りヨハンナは空のカップをテーブルに置き、背もたれに身体を預けた。「美味しかったねぇ」
「シリアル美味しいですよね」
「それに、ビタミンとミネラルと食物繊維が摂れるからねぇ」
「健康気にしてるんですか」
「大事だよ」
「悟ってるのに」
「両立するさ。悟っていること、健康を気にすること」
「……」ヴィルテは少し考えた。「深いですね」
「ふっふっふ」悟りヨハンナは満足そうに笑った。
ゲーミングヨハンナはスマートフォンを操作していた。どうやら、次の試合が始まったらしい。画面から小さな効果音が聞こえてくる。
暖炉の火が揺れている。
ダリウスは眠っていた。「うぅん……それは経費で落ちねえよぉ……」仕事の夢でも見ているのだろうか。
ヴィルテは自分のスマートフォンを手に取った。
ゲームを再開しようか。
それとも、そろそろ寝ようか。
時刻は午前三時二十七分。
明日は学校がある。
いや、もう今日だった。
困った。
そう思ったときだった。
自動扉が開いた。
冷たい風が吹き込んでくる。
ごう。
外では相変わらず猛吹雪が続いていた。
入口の方から、二人の男が入ってきた。
防寒着。
雪の付着した帽子。
大きな台車。
台車の上には、銀色の業務用炊飯器が載っていた。
その隣に、透明な容器がいくつか。
中には、黄緑色の粉末が入っている。
「なにか来たねぇ」悟りヨハンナが顔を上げた。
業者の男たちは、入口の雪を払い、台車を押して奥へ進んだ。
カップシリアルの置かれた場所の隣。
空いていたテーブルに炊飯器を下ろす。
電源をつなぐ。
蓋を開ける。
白い湯気が立ち上った。
米の匂いがした。
「お茶漬けです」男が言った。
「ふっふっふ、来たねぇ」悟りヨハンナが立ち上がった。
さっきまで落ち込んでいたとは思えないほど、機嫌が良さそうだった。
「なんですか、お茶漬けって」ヴィルテが尋ねた。
「来なよ」
「え、はい」
悟りヨハンナは歩き出した。
ヴィルテもついていく。
後ろではゲーミングヨハンナが敵を倒していた。「ふっふっふ」楽しそうだった。
◇
テーブルには、紙の案内が置かれていた。
お茶漬け。
十五レフ。
Lサイズ。
一人一杯。
「……」悟りヨハンナは、最後の一行を見つめた。
しばらく見つめていた。
そして、十五レフを支払った。
ヴィルテも支払う。
二人はLサイズの紙カップを受け取った。
カップシリアルのときと同じ規格だった。
悟りヨハンナは炊飯器の前に立った。
蓋を開ける。
白い湯気。
炊きたての米。
「ふっふっふ」
嬉しそうだった。
しゃもじを手に取る。
ご飯をすくう。
紙カップに盛る。
もう一度すくう。
少し考えてから、盛る。
ヴィルテも真似をした。
米は温かく、柔らかかった。
日本のお米らしい。
ヴィルテは普段、パンやジャガイモを食べることが多い。
米も食べるが、こうして白いご飯だけを大量に盛ることはあまりない。
「それで?」
「次はこれだねぇ」
悟りヨハンナが透明なボトルを手に取った。
中には黄緑色の粉末が入っていた。細かな黒いもの。薄茶色の細長いもの。それから、白っぽい粒。いろいろ混ざっている。
「なんですか、これ」
「お茶漬けの素だよ」
「お茶漬けの素」
「そうだねぇ」悟りヨハンナはボトルを傾けた。さらさら。黄緑色の粉末が、ご飯の上に降りかかる。黒いものが散らばる。細長い薄茶色のものも落ちてきた。
ヴィルテは覗き込んだ。「……なんか入ってますね」
「海苔とおかきだねぇ」
「おかき?」
「米でできたお菓子さ」
「これも米なんですか」
「そうだねぇ」
「米に米をかけるんですか」
「ふっふっふ」悟りヨハンナは笑った。「サクサクしてて美味しいよ」
「へえ……」ヴィルテも粉末をかけた。さらさら。少しかけすぎた気がした。まあいいか。
「それから、お湯だねぇ」悟りヨハンナはカップを持ち、ウォーターサーバーへ向かった。施設に備え付けられた、冷水と温水の出る機械だった。温水のボタンを押す。ごぼごぼ。熱いお湯が注がれる。黄緑色の粉末が溶けていく。海苔が広がる。おかきが浮く。湯気が立ち上る。悟りヨハンナは、それを眺めた。「完成しちゃったねぇ」
「……」
ヴィルテもお湯を注いだ。
完成した。
確かに。
ご飯に粉をかけて、お湯を注いだだけだった。
それで料理が完成してしまった。
「すごいですね」
「ふっふっふ」悟りヨハンナは頷いた。「日本人はこういうのが得意だからねぇ」
◇
午前三時三十六分。
二人は元の場所へ戻った。
ゲーミングヨハンナはゲームをしていた。
ダリウスは寝ていた。
暖炉は燃えていた。
悟りヨハンナは椅子に座った。紙カップをテーブルに置く。割り箸を取り出す。ぱき。綺麗に割れた。「いただきます」そう言って。そしゃそしゃそしゃ!
「……」ヴィルテは見た。
悟りヨハンナが、お茶漬けを食べていた。ものすごい勢いだった。そしゃそしゃそしゃ!「ふー…、これだねぇ」満足そうだった。
ヴィルテも箸を手に取った。
割る。
ぱき。
少し失敗した。
片方が短くなった。
「……」
まあいいか。
たどたどしい箸使いでご飯をつまむ。
汁が絡んでいる。
海苔も少し。
口に運ぶ。
「……へえ」
温かい。
しょっぱい。
米が柔らかい。
海苔の香りがする。
そして。
かり。
何かが歯に当たった。
おかきだった。
「美味しい」
「ふっふっふ」悟りヨハンナは頷いた。そしゃそしゃそしゃ!
「しょっぱい」
「海苔とこのおかきが、ちょうどいいアクセントなのさ」
「へえ」
「海苔の香りも、慣れると美味しいよ」
「確かに、なんか独特ですね」
「そうだねぇ」そしゃそしゃそしゃ!
ヴィルテはもう一口食べた。
熱い。
美味しい。
身体が温まる。
さっき露天風呂で温まったばかりなのに、また温まっている。
外は猛吹雪。
午前三時半。
自分は十五レフのお茶漬けを食べている。
隣では、さっきまで公転していた女がお茶漬けを食べている。
ヴィルテは箸を止めた。
「……」
悟りヨハンナを見た。そしゃそしゃそしゃ!
普通に食べている。
浮いていない。
回っていない。
光っていない。
今のところ。
「……箸使うの上手ですね」ヴィルテが言った。
「ふっふっふ」悟りヨハンナは箸を持ち直した。「食は人生を豊かにしてくれるからねぇ」
「……深いですね」
「そうだねぇ」そしゃそしゃそしゃ!
ヴィルテは少し考えた。
悟りヨハンナは、何か深いことを言っているような気がする。
しかし、よく考えると、普通のことを言っているだけのような気もする。
食べ物は美味しい。
健康は大事。
食事は人生を豊かにする。
どれも正しい。
たぶん。
でも。
悟りというのは、そういうことなのだろうか。
「……悟りヨハンナさん」
「なんだい」
「悟るって、どういうことなんですか」
悟りヨハンナは箸を止めた。
ヴィルテを見た。
穏やかな顔だった。
「ふっふっふ」
「……」
「難しい質問だねぇ」
「そうですか」
「そうだねぇ」悟りヨハンナは紙カップを見下ろした。少しだけ汁が残っていた。「例えば、きみは今、お茶漬けを食べているねぇ」
「はい」
「美味しいかい?」
「美味しいです」
「そうかい」悟りヨハンナは頷いた。「それでいいんじゃないかな」
「……」
ヴィルテは考えた。
お茶漬けは美味しい。
それでいい。
なるほど。
そういうものかもしれない。
「……深いですね」
「ふっふっふ」悟りヨハンナは笑った。「まあ、わたしにもよくわからないけどねぇ」
「わからないんですか」
「わからないことは、いくらでもあるさ」
「悟ったのに?」
「悟ったからといって、何でも知っているわけじゃないからねぇ」
「……」
「知らないことを、知らないままにしておけるのも大事だよ」
ヴィルテは、少し黙った。
四階の光景を思い出した。
自転。
公転。
発光。
それから、ゲーミングヨハンナの「わかったかい」。
わからなかった。
今もわからない。
でも、わからないまま、お茶漬けを食べている。
美味しい。
それは確かだった。
「……なるほど」
「ふっふっふ」悟りヨハンナは、最後の一口を食べた。そしゃ。紙カップを傾ける。汁を飲む。ふー。満足そうに息を吐いた。「おかわりは……」案内の紙を見る。一人一杯。「だめだねぇ」
「……」
しゅんとした。
ヴィルテは悟りヨハンナを見た。
さっき、知らないことを知らないままにしておけるのも大事だと言っていた。
おかわりができないことは、知ってしまったらしい。
「……残念ですね」
「残念だねぇ」悟りヨハンナは空のカップを眺めた。「もう一杯食べたかったねぇ」
「そうですね」
「ふっふっふ」そして、穏やかに笑った。
ヴィルテも少し笑った。
なんだか、変な人だった。
怖い人だと思っていた。
今も、ちょっと怖い。
でも。
お茶漬けを食べているところは、普通の人だった。
普通の人より、少し食い意地が張っているかもしれない。
「……悟りヨハンナさん」
「なんだい」
「またお茶漬けが来たら、食べますか」
「もちろんさ」即答だった。
「……」
「ふっふっふ。楽しみだねぇ」
ヴィルテは頷いた。
悟りヨハンナは、また空のカップを覗き込んでいた。
何も入っていなかった。
午前三時四十九分。
外では、まだ雪が降っていた。
ヴィルテ・コントリマイテは、悟りというものについて少し考えた。
そして、もう考えるのをやめた。
眠かったからだ。




