10 夜が明けて
午前九時十二分。
ヴィルテ・コントリマイテは、目を覚ました。
「……」
暖かい。
柔らかい。
どこかで人の話し声がする。
それから、食器の触れ合う音。
ヴィルテは毛布の中で寝返りを打った。
もう少し寝たい。
あと五分。
そう思って、目を閉じた。
「……」
何か忘れている。
なんだっけ。
ヴィルテは目を開けた。
天井を見る。
知らない天井。
いや、知っている。
Oic Placeだ。
昨日の夜、猛吹雪から逃げ込んだ施設。
そこでゲームをして、シリアルを食べて、露天風呂に入って、なんか変なものを見て、お茶漬けを食べた。
そして寝た。
そうだった。
ヴィルテは枕元のスマートフォンを手に取った。
画面が点灯する。
八時十三分。
「……」
学校。
「やばい」
飛び起きた。
毛布がずり落ちる。
寝癖のついた金髪が肩に広がった。
「ふっふっふ、学校かい?」
声がした。
ヴィルテは振り向いた。
ゲーミングヨハンナがいた。
昨日と同じ場所。
昨日と同じように寝そべっている。
スマートフォンを持っている。
「はい!」
「大変だねぇ」
「大変です!」
ヴィルテは立ち上がった。
毛布を畳む。
マットレスを片づける。
鞄を拾う。
シャワー。
いや、だめだ。
時間がない。
顔は。
あとでいい。
歯磨き。
ああ、もう。
ヴィルテはマフラーを首に巻いた。
手袋をはめる。
鞄を背負う。
「あの、ありがとうございました! また来ます!」
「ふっふっふ、いつでもおいで」
ヨハンナが片手を振った。
ヴィルテも手を振り返した。
ふと、隣を見る。
悟りヨハンナが寝ていた。
すう。
すう。
穏やかな顔で。
ちゃんと床の上で。
浮いていない。
回っていない。
光ってもいない。
ただ寝ている。
その少し向こうでは、ダリウスが大きないびきをかいていた。
「ぐごぉ……」
こちらはあまり穏やかではなかった。
悟りヨハンナも、ダリウスも、よく眠っている。
ヴィルテは二人を見比べた。
「……」
なんだか平和だった。
「じゃあ、失礼します!」
「気をつけてねぇ」
ヴィルテは入口へ駆け出した。
◇
自動扉が開いた。
ごう!
「うわっ!」
猛烈な風が吹き込んできた。
雪が舞い込む。
ヴィルテは思わず目を閉じた。
顔が痛い。
冷たい。
風が強い。
昨日より強い気がする。
いや、昨日もこんな感じだったかもしれない。
よくわからない。
とにかく強い。
ヴィルテはマフラーを鼻まで引き上げた。
帽子を深く被る。
そして、一歩踏み出した。
ごう。
「……っ」
風が身体を押し戻そうとする。
ヴィルテは足を踏ん張った。
一歩。
もう一歩。
雪が横から吹きつける。
建物の壁際にはムーヴァーがあった。
しかし、止まっていた。
赤いランプが点滅している。
悪天候による運転停止らしい。
「……」
ヴィルテは歩いた。
歩道には融雪設備がある。
雪は積もりにくい。
それでも、横殴りの吹雪が視界を奪っていた。
向かい風。
向かい風。
向かい風。
「……っ、はあ」
歩く。
学校へ行かなければ。
遅刻する。
いや、もう遅刻するかもしれない。
急がなければ。
ヴィルテは顔を上げた。
白い。
何もかも白い。
数十メートル先の建物さえ、輪郭がぼやけている。
「……」
もう一歩。
風が吹く。
ごう!
「……むり」
ヴィルテは立ち止まった。
無理だった。
これは無理だ。
学校へ行くとか行かないとか、そういう問題ではない。
歩けない。
寒い。
顔が痛い。
そして、腹が減った。
「……」
ヴィルテは周囲を見渡した。
右。
左。
白い。
その中に、明かりが見えた。
建物の一階。
大きな窓。
青い看板。
Oic Corner。
「……」
ヴィルテは、そこへ向かった。
◇
自動扉が開いた。
暖かい空気が流れてくる。
「しゃせ」
「はあ、はあ……」
ヴィルテは店内に入った。
扉が閉まる。
外の風の音が、少し遠くなった。
暖かい。
助かった。
ヴィルテは手袋を外した。
帽子を取る。
髪についた雪を払う。
店内には、数人の客がいた。
窓際のカウンターで何かを食べている人。
コーヒーを飲んでいる人。
スマートフォンを見ている人。
奥の席では、厚手の上着を着た男が新聞を読んでいた。
誰も急いでいない。
ヴィルテだけが息を切らしていた。
「……」
背の低い商品棚には、スナックや缶詰、カップ麺、レトルト食品、雑貨、雑誌。
冷蔵庫にはドリンクと冷凍食品。
ふと、窓際に目が留まった。
透明な容器が並んでいる。
一つ。
二つ。
三つ。
十八種類。
シリアルだった。
「……またシリアル」
昨日の夜、Oic Placeで食べたものと似ている。
コーンフレーク。
グラノーラ。
チョコレート味のもの。
細かな穀物。
乾燥した果物。
いろいろある。
ただし、こちらには値札がついていた。
無料ではないらしい。
ヴィルテは店内を見渡した。
壁に大きなメニューがある。
お茶漬け。
おにぎり。
寿司。
丼物。
蕎麦。
「……蕎麦?」
写真を見る。
湯気の立つ丼。
黒と灰色の混ざったような色の麺。
美味しそうだった。
「……蕎麦にしよう」
ヴィルテは隣の写真を見た。
黒味がかった灰色の麺。
温かい汁。
刻んだネギ。
シンプルだった。
それから、店内の広告が目に入った。
蕎麦。
冷たいもの。
温かいもの。
肉が載ったもの。
野菜が載ったもの。
卵が載ったもの。
いろいろある。
「蕎麦で麺……、そんなのあるんだ」
ヴィルテは少し考えた。
昨日、Oic Placeでも蕎麦を食べた。
美味しかった。
また食べたい。
ふと、お茶漬けの写真を見る。
昨夜のことを思い出した。
悟りヨハンナ。
そしゃそしゃそしゃ。
あの食べ方。
「……」
シリアルを見る。
お茶漬けを見る。
蕎麦を見る。
ヴィルテはカウンターへ向かった。
「……すみません」
「しゃせ」
店員が顔を上げた。
金髪の若い男だった。
背が高い。
北欧系らしい顔立ち。
白いシャツに、紺色のエプロン。
眠そうな目をしている。
「蕎麦いただけますか?」
「あい、サイズはいかぁっしゃすか」
「……えっと」
ヴィルテは考えた。
いかぁっしゃすか。
何だろう。
もう一度、頭の中で再生する。
サイズ。
いかぁっしゃすか。
いかがしますか。
ああ。
サイズか。
ヴィルテはメニューを見た。
S。
M。
L。
LL。
XL。
XLL。
昨日のシリアル。
昨夜のお茶漬け。
同じ規格だった。
「あ、じゃあ……L?」
「あい。三十六レフになりゃっす」
「あ、Oic Payで」
「あい、タッチおねしゃす」
ヴィルテはスマートフォンを取り出した。
決済端末にかざす。
ぴ。
支払いが完了した。
「おまち」
店員が振り向いた。
奥の調理台。
何かを取る。
湯気。
器。
そして。
「おまち」
蕎麦が置かれた。
「……早い」
ヴィルテは思わず言った。
店員は少し笑った。
「うちはこれでやらしてもらってますんで」
「……」
「ごゆっくりどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ヴィルテは紙カップを受け取った。
Lサイズ。
昨日のお茶漬けと同じ形。
中には蕎麦が入っている。
温かい汁。
ネギ。
湯気。
甘じょっぱい香りがした。
魚介の匂いもする。
ヴィルテは窓際のカウンター席に座った。
鞄を足元に置く。
箸を取る。
ぱき。
今度は綺麗に割れた。
「いただきます」
蕎麦を持ち上げる。
茶色がかった灰色の麺。
細い。
柔らかそうだった。
ずる。
もぐもぐ。
「……へえ」
美味しい。
甘じょっぱい汁。
魚介の香り。
蕎麦の風味。
温かい。
「うまい」
ずる。
もう一口。
ずる。
身体が温まっていく。
指先。
頬。
胸のあたり。
さっきまで冷えきっていた身体に、温かいものが流れ込んでくる。
ヴィルテは息を吐いた。
「……ふう」
そのとき。
ふっふっふ。
「……!」
ヴィルテは顔を上げた。
周囲を見渡す。
窓際。
入口。
奥の席。
カウンター。
誰も笑っていない。
ヨハンナもいない。
「……気のせいか」
ヴィルテは箸を持ち直した。
いたら、さすがに怖い。
ずる。
ずる。
早く食べなければ。
温まったら、すぐに学校へ向かわないと。
そう思ったときだった。
ぴろん。
スマートフォンが鳴った。
「……?」
画面を見る。
学校からの通知だった。
ヴィルテは指で開いた。
悪天候による臨時休校。
本日の授業はすべて中止。
外出を控えるように。
「……」
ヴィルテは画面を見つめた。
もう一度読んだ。
休校。
「……休校かよ」
スマートフォンを置いた。
窓を見る。
猛吹雪。
雪が横向きに流れている。
遠くの建物は見えない。
「……」
ヴィルテは蕎麦を食べた。
ずる。
どうしよう。
学校は休み。
外は猛吹雪。
家に帰れるかもわからない。
Oic Placeに戻るか。
ここにいるか。
どこか別の施設を探すか。
ヴィルテは考えた。
ずる。
蕎麦を食べた。
温かかった。
美味しかった。
それから、ふと思い出した。
『食は人生を豊かにしてくれるからねぇ』
「……」
悟りヨハンナの言葉だった。
昨日の夜。
いや、今日の未明。
お茶漬けを食べながら、あの人はそう言った。
食は人生を豊かにしてくれる。
ヴィルテは窓の外を見た。
猛吹雪。
学校は休み。
家に帰れるかもわからない。
それなのに。
ヴィルテの心は、ほんの少し、じんわりと温かくなっていた。
ずる。
「……」
美味しい。
ずる。
もう一口。
ずる。
そして。
「……」
なくなった。
ヴィルテは空のカップを覗き込んだ。
汁が少し残っている。
麺はない。
『なくなっちゃったねぇ』
悟りヨハンナなら、そう言うだろう。
ヴィルテは小さく笑った。
「……ふっふっふ」
言ってみた。
「……」
なんだこれ。
「……変な笑い方」
ヴィルテはまた笑った。
◇
午前九時四十三分。
ヴィルテはカウンターへ向かった。
「しゃせ」
「おかわりください」
「あい。同じものでよろしすか?」
「あ、いや」
ヴィルテはカップサイズの一覧を見た。
S。
M。
L。
LL。
XL。
XLL。
少し考える。
「XLで」
「あざす」
店員が頷いた。
ヴィルテはOic Payで支払った。
そして、すぐに蕎麦が出てきた。
今度はXLサイズ。
大きい。
さっきより、ずっと大きい。
湯気が立っている。
ヴィルテはそれを持って、窓際の席へ戻った。
座る。
箸を取る。
ぱき。
「いただきます」
ずる。
ずる。
美味しい。
ヴィルテはスマートフォンを取り出した。
地図を開く。
自宅。
現在地。
Oic Place。
どちらが近いだろう。
家と、さっきの場所。
ヴィルテは画面を見つめた。
距離。
所要時間。
悪天候による経路変更。
ムーヴァーの運休。
いろいろ表示されている。
「……」
どちらにしても、今すぐ歩きたくはなかった。
外は猛吹雪だった。
それに。
ヴィルテは考えた。
とりあえず、今の自分が行きたい場所は決まっていた。
「……食ったら戻るか」
Oic Place。
暖炉がある。
毛布がある。
ゲームができる。
シリアルがある。
ゲーミングヨハンナがいる。
ダリウスもいる。
悟りヨハンナもいる。
あの人は、まだ寝ているだろうか。
それとも、またどこかで回っているのだろうか。
「……」
ヴィルテは少し考えた。
できれば、寝ていてほしい。
少なくとも、今日は。
もう一晩。
いや。
吹雪が収まるまでの間、あそこにいよう。
そう思った。
ヴィルテは箸で蕎麦を持ち上げた。
ずる。
窓の外は、猛吹雪だった。




