9 味なんかわからなかった
そして、ヴィルテがようやくワインを飲み終えた頃。
「はふ、はふ……」
男性は、まだ辛そうに息を吐いていた。
あれだけ大量の粉チーズとタバスコをかけたボロネーゼも、残りわずかになっている。
目が潤んでいた。
顔も真っ赤だった。
それでも、男性はフォークを持っていた。
「……ふっ」
ヴィルテは、小さく笑った。
いけない。
笑っちゃいけない。
本人は真剣なのだ。
たぶん。
「ふふっ……」
けれど、こらえきれなかった。
「あはははっ」
ヴィルテは、とうとう声を上げて笑った。
男性が、ぴくりと動きを止めた。
「……辛そうですね」
「!」
男性は、大きく目を見開いた。
「は、はい。辛いよ……」
「ふふ」
ヴィルテは口元を押さえた。
やっぱり辛いらしい。
それなのに、どうしてあんなにかけたのだろう。
不思議な人だ。
男性は、そっとフォークを置いた。
それから立ち上がり、レジへ向かった。
「……」
ヴィルテは、その後ろ姿を見送った。
もう帰るのだろうか。
そう思った時だった。
男性が戻ってきた。
すたすた。
自分の席まで来ると、椅子に置いてあったバッグを取った。
そして、またレジへ向かった。
「……っ」
ヴィルテは目を丸くした。
忘れ物。
バッグを忘れたのだ。
「あはははっ!」
とうとう、声を上げて笑ってしまった。
「なにそれっ」
店内の何人かが、こちらを見た。
それにつられるように、ほかの客も顔を上げた。
ヴィルテは、はっとした。
いつの間にか、店中の視線が自分と男性に集まっていた。
「……」
男性は、レジの前で俯いていた。
耳まで赤かった。
「いくら?」
小さな日本語だった。
「ふっふっふ、百レフだよ」
「じゃあ、ペイで」
男性が支払いを済ませる。
レジヨハンナは、いつもの調子で笑った。
「ふっふっふ、美味しかったかい?」
「味なんかわかるわけねーだろっ」
「……?」
ヴィルテには、何と言ったのかわからなかった。
けれど、男性の声には、なんだか抗議するような響きがあった。
レジヨハンナは、にこにこしていた。
男性は、慌ただしくレジを離れようとした。
その時。
「レシート忘れてるよ」
「!」
男性が振り返った。
「もうっ、ヨハンナちゃんのバカ!」
また日本語だった。
今度は、何かを罵っているように聞こえた。
けれど、怒っているというより、困り果てているようにも見えた。
男性はレシートを受け取り、足早に出口へ向かった。
からんころん。
ドアベルが鳴った。
冷たい外気が、ほんの少し店内に流れ込む。
そして、男性は出ていった。
「……」
ヴィルテは、閉まったドアを見つめた。
それから、ふふ、と笑った。
「……変な人でしたね」
「んね」
ウィルヴェルは、何事もなかったかのようにメニューを開いていた。
「ウェイトレスさん、次たらこスパゲティちょーだい」
「ふっふっふ、たらこスパゲティだねぇ」
ウェイトレスヨハンナが注文を受けた。
「あの、ウェイトレスさん」
ヴィルテは、ふと思い出して声をかけた。
「なんだい?」
「あの人、なんて言ってたんですか?」
ウェイトレスヨハンナは、にんまりと笑った。
「ふっふっふ、気になるかい?」
「ちょっとだけ」
ヴィルテは頷いた。
あの男性は、最後まで何かを言っていた。
レジヨハンナに文句を言っていたようにも見えたけれど、何があったのだろう。
ウェイトレスヨハンナは、少し身をかがめた。
「ヴィルテちゃんが可愛くて、食事に集中できなかったってさ」
「……え」
ヴィルテは瞬きをした。
そして、もう一度。
「え?」
ウェイトレスヨハンナは、にこにこしている。
ヴィルテは、先ほどまで男性が座っていた席を見た。
もう誰もいなかった。
粉チーズとタバスコの容器だけが、テーブルに残っている。
「……」
ヴィルテは、ゆっくりとウィルヴェルを見た。
ウィルヴェルも、にこにこしていた。
なんだか、頬が熱い。
あの人が?
自分のせいで?
ヴィルテは、男性の行動を思い返した。
粉チーズのラベルを眺めていたこと。
タバスコのラベルを眺めていたこと。
席を替わりたがっていたこと。
料理を持ち帰ろうとしていたこと。
そして、奥歯を気にしていたこと。
「……」
あれは、そういうことだったのだろうか。
「お、照れてる?」
ウィルヴェルが笑った。
「……」
ヴィルテは、すっとワイングラスに目を落とした。
「ワインのせいですよ」
「ふふふ」
「おかわりください」
「あいよ」
ウィルヴェルは、慣れた手つきでワインボトルを持ち上げた。
とくとく、とく。
淡い黄金色の液体が、ヴィルテのグラスに注がれていく。
ヴィルテは、それを眺めた。
さっきは苦かった。
けれど、今度はもう少し美味しく感じるかもしれない。
「ふっふっふ」
ウェイトレスヨハンナが笑った。
「……」
ヴィルテは顔を上げた。
ヨハンナは、相変わらずにこにこしている。
「なんですか」
「若いねぇ」
「……」
ヴィルテは、ウェイトレスヨハンナを睨みつけた。
ヨハンナは、まったく気にしていなかった。
「ふっふっふ」
そう笑いながら、厨房へ引っ込んでいった。
「……もう」
ヴィルテは小さく呟いた。
隣では、ウィルヴェルが肩を揺らしていた。
ヴィルテは、グラスを手に取った。
そして、白ワインを一口飲んだ。
「……」
やっぱり苦かった。




