3 顔見知り
「ふっふっふ、待たせたねぇ。ネーロとボンゴレだよ」
ウェイトレスヨハンナが、二枚の皿を運んできた。
ひとつは、真っ黒なイカスミのソースをまとったピッツォッケリ・ネーロ。
もうひとつは、アサリがたっぷり入ったピッツォッケリ・ボンゴレだった。
どちらも湯気を立てている。
「わー、美味しそう」
「あざっす」
ヴィルテとウィルヴェルは、それぞれの皿を受け取った。
「ふっふっふ、楽しんでねぇ。ふっふっふ……」
ウェイトレスヨハンナは、満足そうに笑いながら厨房へ向かった。
ヴィルテは、その背中を見送った。
しばらくして、ぽつりと言った。
「あの笑い声聞いてると、なんか変なもの混ぜられてるんじゃないかって思っちゃいますね」
「ふっふっふ……」
隣から、低い笑い声が聞こえた。
ヴィルテは振り向いた。
ウィルヴェルが、口元に笑みを浮かべている。
「もー、やめてくださいよ、ウィルヴェルさーん」
「あはは、ごめーん」
ウィルヴェルは楽しそうに笑った。
「食べよっか」
「はい」
二人は姿勢を正した。
胸の前で十字を切り、静かに祈りを捧げる。
ほんの短い時間だった。
周囲では食器の触れ合う音や、客たちの話し声が続いている。
厨房からは、また「ふっふっふ」という笑い声が聞こえてきた。
祈りを終えると、ヴィルテとウィルヴェルはフォークを手に取った。
「おいひー」
「ねー」
ヴィルテは、イカスミの絡んだピッツォッケリを頬張った。
蕎麦の香りが、魚介の旨味と一緒に口いっぱいに広がる。
ウィルヴェルも、ボンゴレを美味しそうに食べていた。
店内は賑やかだった。
食器の触れ合う音。楽しそうな話し声。厨房から聞こえてくる、ヨハンナたちの「ふっふっふ」。
ヴィルテはすっかり上機嫌だった。
そのとき、ウィルヴェルが水差しをとり、ふと、窓の方を見た。
「……」
「?」
ヴィルテも窓を見た。
大きな窓ガラスの向こうでは、まばらな雪が静かに宙を舞っていた。
通行人がちらほらと行き交っている。
穏やかな景色だった。
しかし、どうも様子がおかしい。
ウィルヴェルは、通行人を目で追っているわけではなかった。
窓の外を眺めているようで、どこにも焦点が合っていない。
まるで、宙を、虚空を見ているかのようだった。
ヴィルテは首をかしげた。
そして、気づいた。
窓ガラスに、店内の様子が映っている。
先ほど入ってきた日本人の男性だった。
ウィルヴェルは、窓に映ったその姿を見ているのだ。
男性はちょうど、お手拭きを三枚手に取ったところだった。
何気ない様子で、それらをポケットに入れている。
「……はじまったか」
ウィルヴェルが呟いた。
「……」
ヴィルテは、ウィルヴェルを見た。
それから、もう一度、窓ガラスに映る男性を見る。
ははーん。
わかってしまった。
さては、この男性、ウィルヴェルの親しい友達なのだ。
偶然ここで鉢合わせたものの、二人で話をしようにも、自分がいるからそうもいかない。
おそらく、窓ガラス越しにアイコンタクトでもしているのだろう。
なるほど。
そういうことなら、話は早い。
「ウィルヴェルさん」
「ん?」
「お邪魔でしたら、わたしはおいとましますよ」
「は? いや、急になに?」
「大丈夫です。わかってますから」
ヴィルテは微笑んだ。
大丈夫。わかっている。
そういう目と声色だった。
ウィルヴェルは、まったくわかっていない顔をしていた。
「いや、何が?」
「ふふ」
ヴィルテは答えなかった。
代わりに、窓ガラスへ視線を向けた。
「あの人、かっこいいですね」
目線で、誰のことかを示す。
「え、……あ、あー、うん、そうだね」
ウィルヴェルは、コップに水を注いだ。
「タイプ?」
「えー、どうだろー」
ヴィルテは少し考えた。
落ち着いた雰囲気の男性だった。
顔立ちも整っているし、物静かそうで、なかなか格好いい。
ただ、タイプかと聞かれると、そういうことでもない。
「彼女さん、いるんですかね」
「ふふふ、どうかな〜」
ウィルヴェルは、ちら、と窓を見た。
ヴィルテは、その反応に内心首をかしげた。
なんだか、妙な返事だった。
釣られて窓を見る。
男性は、粉チーズの容器を手に取っていた。
ラベルを眺めている。
何が書いてあるのだろう。
ヴィルテは少し目を凝らした。
男性は容器を持ち直した。
ラベルを読む。
また持ち直す。
どうも、動きがぎこちない。
「……?」
ヴィルテは首をかしげた。
よく見ると、男性の耳が、どことなく赤くなっている気がした。
店内は暖かい。
外は雪。
きっと、寒いところから入ってきたばかりだからだろう。
ヴィルテはそう思った。
男性は、まだ粉チーズのラベルを眺めていた。
ずいぶん熱心だった。




