幕間 とある記者の取り調べ
がしゃん。
こつ、こつ、こつ。
重たい鉄扉が閉まり、靴音が静かな部屋に響いた。
哲学ヨハンナは、椅子に座った女を見下ろした。
女は、能天気そうな顔で部屋のあちこちを眺めていた。壁、天井、マジックミラー、監視カメラ。最後に、入ってきた哲学ヨハンナに気づくと、その顔を見上げた。
「……」
「……」
「……なにか飲むかい」
「あ、じゃあ、えっと……、なにがありますか?」
「水だねぇ」
「じゃあ、それを」
「コーヒーもあるよ」
「トイレ行きたくなるから……。長くなるんでしょう?」
「察しが良いねぇ」
哲学ヨハンナはコーヒーメーカーに手を伸ばした。
「こういうのは初めてじゃないのかい」
「初めてです」
「そうかい」
こぽぽぽぽ。
コーヒーの落ちる音だけが、しばらく部屋に響いた。
「どうぞ」
「……毒とか?」
「ふっふっふ、自白剤かい? それとも劇薬?」
「聞かれても……」
「どっちも必要ないねぇ」
哲学ヨハンナは向かいの椅子に腰を下ろし、机の上のファイルを開いた。
「ウィルヴェル……、記者かい」
「はい」
「どんな記事を?」
「調べは付いてるんでしょう?」
「確認だねぇ」
女はコーヒーに口を付けた。
「その街のリアルを。国民はどう過ごしているか、スーパーやコンビニにどんなのがあるか、そこにしかないチェーン店になにがあるか、観光地のカフェと路地裏のカフェの違い、そんな感じです」
「ガイドブックかい?」
「はい。著書もいくつか」
「……」
哲学ヨハンナはRowenaを取り出し、ぽちぽちと操作した。
Amazonの検索結果に、いくつもの書籍が並んだ。
「へえ、なかなか良い写真を撮るねぇ」
「ええ、全部自分でやってるんです」
「楽しんでるかい」
「仕事は楽しませていただいてます。この状況は、楽しいとはいえませんが」
「そうだねぇ」
哲学ヨハンナはRowenaを机に置いた。
「当初の予定を聞かせてくれるかい。滞在期間は?」
「三ヶ月」
「友人は?」
「入国当初はいませんでした。今は何人か」
「優秀な記者だねぇ」
哲学ヨハンナは、記者と言うとき、両手の人差し指と中指を二度曲げた。
「帰りのチケットは?」
「そちらに押収されました。スカンジナビア航空、十四時三十分の便、フランクフルト経由でLAに」
「淀みないねぇ」
「三時間待たされてる間に、聞かれそうなことは整理しておいたので」
「協力的だねぇ」
哲学ヨハンナは頷いた。
それから、壁の監視カメラを見上げた。
片手を上げ、人差し指を立てる。
くるりと回し、親指を下に向けた。
監視カメラの赤いランプが消えた。
「マイクもだよ」
哲学ヨハンナはマジックミラーの向こうに向かって、もう一度手を振った。
数秒後、机の端に置かれた録音機器のランプも消えた。
「……」哲学ヨハンナは、ウィルヴェルを見下ろした。
「……」ウィルヴェルは、爪を噛みながら哲学ヨハンナを見上げる。
「……ふっふっふ」
「……もー」
ウィルヴェルは椅子の背もたれに身体を預けた。
「なんなんすかししょー」
「ふっふっふ、驚かせちゃったねぇ」
「ほんとですよぉ。ホテルで寝てたらいきなりなんか来るんですもん。なんなんすか」
「きみねぇ、節操なく写真をぱしゃぱしゃするクセ直しなって言っただろう」
「気をつけてたんすけどねぇ。いや、街並みが綺麗だから」
「ふっふっふ、そうだろう? でもねぇ、そりゃあ五秒ごとにぱしゃぱしゃやってたら、この国の警察だって眉をひそめるさ」
「気をつけまーす」
「ここがロシアやベラルーシと同じ地域にあるって忘れてたんじゃないだろうね」
「だって、ししょーが外務大臣やってる国なら、めちゃくちゃ緩いと思うじゃないすかー」
「緩いよ」
「でしょー?」
「めちゃくちゃ緩いよ」
「じゃあなんでこんなことなってるんすかー」
「きみがその緩い人たちすら不審がらせたからだよ」
「なにがいけないんすかー」
「写真撮りすぎるところだよ」
ウィルヴェルは不満そうに頬を膨らませた。
哲学ヨハンナはファイルから一枚の写真を取り出した。
「きみねぇ、これだよこれ、この写真」
机の上に置かれたのは、青空を背景にした、立派な石造りの建物だった。
左右対称の外観に、大きな窓。正面には広場があり、よく手入れされた植え込みが並んでいる。
ウィルヴェルは身を乗り出した。
「きれいな建物っすよねー」
「大統領官邸だよ」
「あ、だからナンバープレートが……」
「そうだよ」
「監視カメラ多いなーって」
「そういうことだよ」
「それで逮捕っすか」
「一時的な拘束だよ」
「いつまで」
「今すぐ出れるよ」
「じゃー出してくださいよ」
哲学ヨハンナは写真をファイルに戻した。
「きみについては名探偵ヨハンナから聞いてたよ」
「なに聞いたんすか」
「ふっふっふ、こうして会うのは初めてだからねぇ。せっかくだしゆっくり話そうよ」
「外で話しましょーよー」
「こんなところで話すなんてこと、そうそうできないよ」
「……」
ウィルヴェルは改めて部屋を見回した。
飾り気のない机。硬い椅子。マジックミラー。天井の監視カメラ。
「……言われてみれば」
「ふっふっふ、まあ、滅多にできない体験さ。じっくり楽しもうじゃないか」
哲学ヨハンナは内線電話を取った。
「もしもし」
途端に低い声になる哲学ヨハンナ。
ウィルヴェルの脳内にシリアスで重厚なBGMが流れた。
「こいつ口が硬いねぇ。ちょっとカツ丼持ってきてくれるかい」
ウィルヴェルは目を瞬かせた。
「そう、Oic Cornerの。XLL。そうだねぇ、牛丼と天丼、おにぎり各種、寿司各種。二つずつね。味噌汁とお茶も頼むよ。うん。経費で申請しなよ。じゃあね」
受話器を置いた。
「ふっふっふ」
重厚なBGMが消えた。
「いや、ちょっと待ってくださいよ」
「なんだい」
「食べすぎじゃないすか?」
「二人分だよ」
「二人分でも多いっすよ」
「余ったら持って帰りなよ」
「いいんすか?」
「いいよ」
「じゃあ、おにぎりは鮭がいいっす」
「各種だよ」
「あ、そっか」
ウィルヴェルは満足そうに頷いた。
それから、ふと顔を上げた。
「ところで、いつ帰れるんすか?」
「今すぐ帰れるよ」
「じゃあ帰してくださーい」
「ご飯が来るだろう」
「そうでした」
哲学ヨハンナはコーヒーを飲んだ。
ウィルヴェルもコーヒーを飲んだ。
「……ししょー」
「なんだい」
「これ、経費で落ちるんすか?」
「さあねぇ」
「さあねぇって」
「ふっふっふ」
二人はしばらく黙っていた。
ウィルヴェルは、もう一度マジックミラーを見た。
「向こうの人たち、なにしてるんすかね」
「仕事だねぇ」
「カメラもマイクも切れてるのに?」
「そうだねぇ」
「暇じゃないすか?」
「暇だろうねぇ。ゲームでもやってるんじゃないかな」
「ゲーム」
「マジックミラーの向こうにいるのもわたしだからねぇ」
「は?」
◯
「ふっふっふ」
「待ちなよ」
「なんだい?」
「きみ、ウノって言ってないじゃないか」
「言ったよ」
「2ドロー」
「ドロー返しだねぇ」
「4ドロー」
「待ちなよ、2ドローに4ドローでドロー返しはだめだよ」
「どこのローカルルールだい?」
「ネブラスカかい?」
「グンマかい」
「北センチネル島かい?」
◯
「多分3人でなんかやってるよ。しりとりかトランプか」
「じゃあもう最初から最後まで茶番じゃないすかー」
「そうだねぇ」
哲学ヨハンナは椅子に深く腰掛け、脚を組んだ。
「ところで、きみ。三ヶ月もこの国にいて、なにが一番気に入ったんだい」
「えー、いっぱいありますよ」
「聞かせてくれるかい」
「いいっすよ。まずですねぇ……」
ウィルヴェルは鞄を探そうとして、手元にないことに気づいた。
「あ、資料全部押収されてるんだった」
「口で話しなよ」
「写真見せたいんすよぉ」
「あとで返してもらいなよ」
「そうします」
ウィルヴェルは机に両肘をついた。
「まず、街並みが綺麗なんすよねぇ」
「ふっふっふ、そうだろう?」
「特に大統領官邸」
「そこはもういいよ」
マジックミラーの向こう側。
薄暗い監視室には、三人のヨハンナがいた。
一人は監視卓の前に座り、一人は椅子に横向きに腰掛け、もう一人は机に両肘をついている。
監視モニターには、向かい合って座る哲学ヨハンナとウィルヴェルが映っていた。
「……」
「……」
「……」
監視卓のヨハンナが、画面の隅に表示された時計を見た。
「暇だねぇ」
「そうだねぇ」
「なにかするかい」
「なにを?」
「しりとりとか」
「昨日やったよ」
「そうだったねぇ」
しばらく沈黙した。
「トランプは?」
「あるよ」
「ウノもあるよ」
「じゃあウノにしようか」
「ふっふっふ、いいねぇ」
机の引き出しから、使い込まれたUNOの箱が取り出された。
三人は監視卓の脇に椅子を寄せ、カードを配り始めた。
ほどなくして、監視カメラの赤いランプが消えた。
「あ、切れたねぇ」
「マイクもだって」
「はいはい」
監視卓のヨハンナが録音を停止した。
「これでよし」
「じゃあ始めようか」
「もう始まってるよ」
「そうだったねぇ」
ぱさ。
赤の七。
ぱさ。
赤の二。
ぱさ。
青の二。
「ふっふっふ」
「きみ、ウノって言ってないじゃないか」
「言ったよ」
「聞いてないよ」
「言ったってば」
「いつ?」
「さっき」
「さっきっていつだい」
「カードを出す前だよ」
「聞こえなかったねぇ」
「耳が悪いんじゃないかい」
「きみと同じ耳だよ」
「そうだったねぇ」
三人は笑った。
「じゃあ続けようか」
「いいよ」
ぱさ。
「二枚ドロー」
「ドロー返しだねぇ」
ぱさ。
「四枚ドロー」
「待ちなよ、二枚ドローに四枚ドローでドロー返しはだめだよ」
「なんでだい」
「ルールだよ」
「どこのローカルルールだい?」
「ネブラスカかい?」
「グンマかい」
「北センチネル島かい?」
「ふっふっふ」
「ふっふっふ」
「ふっふっふ」
三人はしばらく笑っていた。
「北センチネル島の人たちはウノをやるのかい」
「知らないねぇ」
「じゃあ聞いてきなよ」
「嫌だよ」
「なんでだい」
「怖いじゃないか」
「ふっふっふ、そうだねぇ」
監視卓のヨハンナが、カードを一枚引いた。
「そもそも、公式ルールではドロー返し自体が認められてないんだよ」
「知ってるよ」
「わたしも知ってるよ」
「じゃあなんでやったんだい」
「面白いからだよ」
「なるほどねぇ」
三人は頷いた。
ぱさ。
「四枚ドロー」
「だからだめだって」
「ふっふっふ」
監視モニターの中では、哲学ヨハンナが脚を組み、ウィルヴェルと話していた。
監視卓のヨハンナがちらりと画面を見る。
「向こう、楽しそうだねぇ」
「そうだねぇ」
「こっちも楽しいよ」
「ふっふっふ、そうだねぇ」
ぱさ。
「ウノ」
「言ったねぇ」
「言ったよ」
「聞こえたよ」
「ふっふっふ」
ぱさ。
「上がりだねぇ」
「ちょっと待ちなよ」
「なんだい」
「最後の一枚、ワイルドドロー4じゃないか」
「そうだよ」
「それ、出せないんじゃないかい」
「出せるよ」
「出せないよ」
「どこのローカルルールだい?」
「ネブラスカかい?」
「グンマかい」
「北センチネル島かい?」
「ふっふっふ」
「ふっふっふ」
「ふっふっふ」
監視室には、三人分の笑い声が響いていた。




